2024年 04月29日(月)

現在
6時間後

こんにちはゲスト様

高知新聞PLUSの活用法

2022.09.18 08:46

「明治生まれ」高知県内から去る 昨年まで最高齢、宮崎さん(高知市)も111歳で死去 「なるようになる」明るく生きた

SHARE

デイサービスで104歳の誕生日を祝ってもらい、笑顔の宮崎智恵さん(2014年1月、高知市内=遺族提供)

デイサービスで104歳の誕生日を祝ってもらい、笑顔の宮崎智恵さん(2014年1月、高知市内=遺族提供)

 9月19日の敬老の日を前に、高知県が発表した資料によると、県内の最高齢は大正生まれの109歳。1912年7月30日以前の「明治生まれ」はみな、この世を去った。その一人が2年連続で県内最高齢だった宮崎智恵さん=高知市北金田。昨年12月に111歳で死去した。明治から大正、昭和、平成、令和と五つの時代を「えい時も悪い時も明るく生きた」人生だったという。

 智恵さんは1910(明治43)年、同市通町で5人きょうだいの次女として生まれた。子どもの頃には「友達が行きゆうき」と子守奉公へ出たが、「おむつを冷たい川で洗うてもきれいにならん」とすぐに出戻った、とか。

 長年一緒に暮らした次女の紘子さん(79)はそんなエピソードを明かし「ちょっと天然で、どこかあっけらかんとした母でした」と笑う。

 智恵さんは23歳で、浦戸湾の漁師、兼太郎さんと結婚した。湾のそばに住み、3男2女に恵まれた。網を打つ夫の横で櫓(ろ)をこぎ2人でチヌやコノシロを取ったが、本人は「『生臭いき』言うて魚は好きやなかった」。好きなのは「雑煮。100歳を超えても、お餅を食べよった」という。

 孫の小町さん(56)も、「いかにも明治生まれらしい」話をよく聞いたという。

 智恵さんの祖父は、武家屋敷の庭先で武士の切腹を見ており、囲んだ人たちが「あっぱれ、あっぱれ」と声を上げていたこと。

 戦中。海辺で米機の機銃掃射を受け、慌てて逃げたが、気絶した魚が浮かんだのを見て取りに走ったこと。

 特にお気に入りだったのが、戦後の進駐軍交代で英軍が来高した時の話。スコットランド兵のキルトを下からのぞき「パンツをはいてなくて驚いた」。楽しそうに、何度も話してくれたそうだ。

 百寿を迎えてからも元気にデイサービスに通い、手拍子しながら大好きな唱歌を披露。明治から昭和の曲まで「何でも知っちゅう」と自慢げに歌っていた。十八番は森昌子の「せんせい」。病院で医師に合うたび「♪淡い初恋 消えた日は」と元気に歌い出し、「歌を先生に聞かさんと帰ってこんかった。音痴やったけんどねえ」(紘子さん)。

 6年ほど前に手術を受け、以降は寝たきりに。最期は紘子さんらにみとられ、静かに息を引き取ったという。

 「今も、おったらいいなあと思う」としのんだ紘子さん。母の長生きの秘訣(ひけつ)をこう語った。

 「智恵ちゃんは穏やかで、ぐちを言うのを聞いたことがない。『なるようになる』って何でも受け入れ、明るくおりました」(浜田悠伽)

高知のニュース 高知市 医療・健康 高齢者

注目の記事

アクセスランキング

  • 24時間

  • 1週間

  • 1ヶ月