2024年 04月26日(金)

現在
6時間後

こんにちはゲスト様

高知新聞PLUSの活用法

2022.07.13 08:24

「牧野少年、小学校が嫌になる」シン・マキノ伝【2】 田中純子(牧野記念庭園学芸員)

SHARE

 明治4、5(1871、2)年のこと、牧野が10歳になった頃、寺子屋に通い習字を習いはじめた。寺子屋は佐川の町の西谷にあって、土居謙護という人が先生であった。イロハから教わったが、そのうちに寺子屋を替え、次に行ったのは佐川の町外れにある目細というところにあって、伊藤蘭林先生が開いたものであった。学んだ主な科目は、習字・算術・四書・五経の読み方であって、儒教に重きを置いた漢学であったとみられる。牧野は色紙などに揮毫(きごう)する際に「結網子」や「結網学人」と署名したが、この「結網」という号は「漢書」董仲舒(とうちゅうじょ)伝から採られたもので、自ら工夫する、努力するという意味がある。その語を牧野が知ったのは蘭林先生の教えによると上村登の「牧野富太郎伝」(六月社、1955年)=注=は伝えている。当時は江戸時代の身分制が続き、門弟は武士の子弟がほとんどで、町人では山本富太郎と2人だけであった。しばらくして蘭林先生の寺子屋が廃止されることになったので、名教館に通うことになった。 

 この名教館は、江戸時代の中頃に佐川の領主・深尾氏が創設した学校であったが、牧野が通った時は、…

この記事の続きをご覧になるには登録もしくはログインが必要です。

高知のニュース 牧野富太郎 シン・マキノ伝

注目の記事

アクセスランキング

  • 24時間

  • 1週間

  • 1ヶ月