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2022.07.13 08:40

雲の上を行きゆう感じ 自作の“車”で一番乗り―浦戸大橋50歳(1)

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開通した浦戸大橋に自作の車で一番乗りし、料金所前で花束をもらう浜田御酒男さん(1972年7月12日、本人提供)

開通した浦戸大橋に自作の車で一番乗りし、料金所前で花束をもらう浜田御酒男さん(1972年7月12日、本人提供)

 薄い雨雲が広がる中、高知市種崎は熱気に包まれていた。海沿いの道は見渡す限り自動車の列が続き、お年寄りから子どもまで多くの人が歩道に詰めかけた。みんな今か今かと、その時を待ちわびていた。

 1972年7月12日午後3時。道路をふさいでいたバリケードが撤去された。ドライバーはアクセルを踏み込み、歩道の人たちは最高点の海抜50メートルまで、上へ上へと歩みを進める。県民が待ちに待った夢の架け橋、浦戸大橋が開通した。

 「雲の上を行きゆう感じ。壮大に広がる海を見て興奮した」。種崎側から車の一番乗りを果たした浜田御酒男(みきお)さん(74)=同市鏡川町=が懐かしそうに振り返る。

 当時、24歳だった浜田さん。種崎に住み、地元の造船会社に勤めていた。造船関係で働く人が種崎だけでも千人近くいた時代。橋の着工から2年3カ月、毎日工事を眺めていた。

 「開通に合わせて自作の車を走らせたら面白いんじゃないか」。以前から製作していた車を新しい橋でお披露目することに決めた。

 木の板の四隅を銅板で囲って車体を作り、オートバイのエンジンとタイヤ、農作業車のハンドルを取り付けた。屋根のない“クラシックカー”は、自身のあだ名から「ミッキー号」と名付け、正面にはミッキーマウスの銅板を張った。

 開通前夜の7月11日午後8時ごろ。友人と2人で橋のたもとまでミッキー号を走らせ、そのままバリケードの手前に車を止めて家に帰った。

 翌日の午後2時ごろ、ミッキー号に戻ってみると、後ろに50台ほどの車が止まっていた。「まさかよ。自分が先頭やったがよ」

 午後3時。作業員がバリケードを外した。「祝 浦戸大橋開通」と書かれたのぼり旗をはためかせたミッキー号は、友人の車にロープで引っ張ってもらいながら橋の急坂を上っていった。

 吹き抜ける潮風が気持ち良かった。後続も対向の車も同じようにゆっくりと走り、景色を楽しんでいるようだった。種崎から浦戸まで約1キロの道のりは、低速で進んでもあっという間。「浦戸がこんなに近くなったがや」と驚いた。

 1週間前、県内では繁藤災害があり、盛大な開通式こそなかったが、開通して1時間で約600台の車が橋を渡った。

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50年前の開通当時を思い出しながらシニアカーで浦戸大橋を渡る浜田さん

50年前の開通当時を思い出しながらシニアカーで浦戸大橋を渡る浜田さん

 あれから50年後の7月12日午後3時。74歳になった浜田さんが浦戸大橋のたもとにいた。「50年の節目やのになんで式典も何もないが? 寂しい。県庁にも電話したがやけどね」。ならば、自分一人でも橋の50歳の記念日を祝ってやろう、と駆けつけた。

 ミッキー号はとっくに廃車となり、自身も約30年前に体調を崩した。車の運転ができなくなり、現在の移動はもっぱらシニアカー(電動車いす)。「ミッキー2号」と名付けたそのシニアカーに「祝 開通50周年」と記したのぼり旗を掲げ、橋の急坂をゆっくり上り始めた。

 「浦戸大橋は高知の名所になった。みんなの誇りよ」。浦戸大橋を思う気持ちは、あの時と同じままだ。

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 高知市の浦戸湾口をまたぐ浦戸大橋が12日、「50歳」を迎えた。巨大な橋はなぜ造られ、市井の生活の中でどんな役割を果たしてきたのか。地元住民らの話から、半世紀の歩みを振り返る。(報道部・乙井康弘)

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