2025.05.07 08:50
【全文公開】やなせたかしさんの弟、千尋さん 23年の生涯は? 友達思いの大酒飲み 高知大に答案用紙残る

「あんぱん」の一場面。やなせさんの弟がモデルの柳井千尋を中沢元紀さんが好演している
やなせたかしさんは、若くして戦死した弟の千尋さんについて「性格も明るく成績も良く、柔道二段で快活であった」「とにかく君はまぶしかった」と、「やなせたかし おとうとものがたり」(フレーベル館)で振り返っている。高知県内には学生時代に書いた答案用紙なども残る。千尋さんの23年の人生をたどった。
千尋さんは東京生まれ。3歳の時、朝日新聞記者だった父を亡くし、南国市の伯父の養子となった。2年後、やなせさんも母の再婚により伯父宅へ。兄弟は一緒に暮らすようになった。

21歳の柳瀬千尋さん=左。友人たちと京都保津川を散策した時の写真(広井正浩さん提供、1942年11月)
連続テレビ小説「あんぱん」で、やなせさんがモデルの柳井嵩(やない・たかし)は高知第一高等学校の受験に失敗していたが、この学校のモデルが旧制高知高校だ。1923年創立で現在の付属小中学校が立つ場所にあった。戦後の学制改革で高知大になるまで約4600人が学び、後に大学教授となったり、官庁や大企業の偉い手となったりするような、エリート候補生が県内外から集った。
入学試験は難しく、旧制中学5年(最終学年)で受けるのが一般的。やなせさんは城東中学校(現追手前高)4年時に受けて不合格だったが、千尋さんは4年時に合格している。
38年入学の16回生は130人で、千尋さんのクラス(文科甲類2組)は26人。学生寮「南溟(なんめい)寮」に入った。酒もたくさん飲んだようだ。
卒業後は京都帝国大学へ。だが43年に学徒出陣が始まり、海軍予備学生となった。翌年に台湾とフィリピンの間のバシー海峡で亡くなった。兄弟が最後に会ったとき、弟は「僕はもうすぐ死ぬが、兄貴は生きて絵を描いてくれ」と言い残したという。
やなせさんは周囲の話から「弟は戦場へ向かう輸送船ごと撃沈された」と思っていたが、安芸市出身のノンフィクション作家、門田隆将さんの取材で、実際は駆逐艦「呉竹」に乗船中に米軍の魚雷攻撃で亡くなったことが分かっている。23歳の若さだった。
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旧制高知高校の同窓会組織「南溟会」が高知大で保管する資料の中に、千尋さんの名が記された資料がある。

出征した教官に寄せた日の丸。柳瀬千尋の名がある

千尋さんの世界史の答案用紙
これらはクラス主任だった英語教員、八波直則さんが77年8月に寄贈した。なぜ八波さんの手元に答案用紙があったのかは分からないが、南溟会事務局は「戦争の犠牲となった教え子たちの、生きた証しを残そうと寄贈されたのだろう」。
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学生時代の千尋さんは「相当な大酒飲みであった」とやなせさん。「『柳瀬君はすてきな人物だが、酒は控えた方がいい』と忠告する手紙」も届いていたと書く。
門田さんの本には、友達が多く、友達思いの千尋さんのエピソードがいくつも出ている。後免野田小から京都帝大まで一緒だった幼なじみの広井正路さん(2008年に86歳で死去)の息子も、門田さんの取材に、父親が千尋さんと一緒に酒を飲んでは電車道の真ん中を、肩を組んで歩いていたことを懐かしそうに語っていたと明かしている。そして、酒が苦手なやなせさんは一緒に楽しめなかったことを「とても残念」と悔やむ。
「弟の旧制高等学校の学生生活の一部を見ると、これがまさに青春だなと思ってうらやましかった」と書き残したやなせさん。本紙エッセーに「アンパンマンを描くとき、どこか弟に似ているところがあって、胸がキュンと切なくなります」と書き残している。(村瀬佐保)





















