2025.08.07 09:00
日曜日、防空壕を掘る家族…奉仕作業や防空演習も 写真家の故・寺田正さんが残した「よみがえる戦時の暮らし」【紙面未掲載写真あり】

寺田正さんが撮影した、防空壕を掘る妻子。手前の子どもが当時9歳の長男恭幸さん(1945年6月、高知市朝倉丙=写真はいずれも高知市民図書館寺田正写真文庫から)
1945年6月、高知市朝倉丙(旧朝倉村)。高知営林局職員だった寺田正さん=当時39歳=が撮影した。和やかな休日にも見えるが、一家が造っているのは防空壕(ごう)だ。家族4人が隠れる穴を掘り、雨をしのぐ覆いを掛けただけの代物だった。
翌7月4日、高知大空襲があった。125機のB29が飛来し、同市に18万発もの焼夷(しょうい)弾を投下。450人以上が命を落とし、家庭の壕で亡くなった人もいたと伝わる。
「夜中に起こされ、着るものも着ずに4人で壕に逃げた。少しして壕を出た父親が『空が真っ赤じゃ』と叫んだのが忘れられない」。寺田さんの長男、恭幸さん(89)=同市朝倉己=が振り返る。一家は空襲を免れ、終戦を迎えた。
正さんはその後、営林局を退職し写真家に転身。四国の林業や社会運動、風俗などを追い、1994年に89歳で亡くなった。
戦争資料に詳しい専門家によると、正さんが残した写真の中でも「太平洋戦争中の高知の町中」は特に貴重だという。戦後80年。多くの戦争体験者が鬼籍に入る中、写真は今も不穏な時代を語っている。
戦時の高知 暮らし見つめ
写真家の故・寺田正さん(享年89)は、持病のため戦争に徴兵されなかった。日中戦争が始まった1937年から、太平洋戦争が終結した45年までに県内で約1千枚の写真を撮り残している。カメラは一般に普及しておらず、国が撮影を制限していた時代。戦時の暮らしぶりを伝える写真の数々に、専門家は「よく撮っていた」と目を見張る。
街の物売りに農家、林業従事者、空襲前の高知市の町並みや船着き場…。被写体は多岐にわたる。開戦当初は街中も比較的自由に撮影できていたようだ。後の39年に…





















