2022.06.23 08:34
ウクライナからの手紙 高知に避難していた女性から、県民へ感謝「生涯忘れない」
私達を救ってくれた日本と高知県の皆さん、大変お世話になっております。
現在私達は故郷ウクライナの実家にて、母の看病をしています。
現在母は高血圧の症状が重く、あまり無理なことができません。
現在、定期的な薬の入手ができないことが不安ですが、食べ物は手に入れることができますので、とりあえずは生活ができています。
しかしながら、戦争による危険と町の治安の悪さがあります。
2022年3月4日のウクライナ中部ジトーミル。攻撃で壊れた学校近くを歩く同国の兵士(ロイター=共同)
いつでもシェルターに避難できるように、小さな家で家族3人で暮らしています。
私達親子が、ウクライナから日本に避難するまでのことを振り返ってお話ししたいと思います。
2月に戦争が始まって以来、私達の生活は変わってしまいました。
そして、3月1日に私の街ジトーミルにミサイルが落ちてから私達は恐怖に怯(おび)える毎日でした。
死ぬかもしれないという恐怖から生きるため行動を決心するためには沢山の問題がありました。
この場所から逃げるしかない、しかしどこに行けばいい、どうやって、食べることやお金のこと、いろんなこと、母と私と幼い娘の3人には十分に準備した状態で逃げることができませんでした。
母は高齢で体調も良くないし、外国にも行ったことがないため、母は「この戦争でウクライナがロシアに負けたら、私はここで死ぬ。」と言ってきかず、一緒に逃げることを説得できませんでした。
3月12日、これで最後になるかもしれないという思いで、私達は母を置いてとにかく本当にとにかくウクライナを離れました。
同9日のジトーミル。ロシア軍の砲撃で破壊された建物を調べる救急隊員(UPI=共同)
何度も何度も家を出てから日本に来るまでの不安だった時のことや母のことが心配でたまらなかったことを思い出します。
避難の途中、日本の友人との連絡をとることができ、その後は母の願いも含めて無事に日本まで避難すること、娘を無事に安全なところまで連れていくことに必死でした。
ウクライナ国内の避難途中では電車が空襲警報でしばらく止まったり、駅や路上で行き場のない沢山のおじいさんやおばあさんが大声で嘆き悲しんでいる中を自分の娘の手を取って歩き進み、小さなスーツケースを握り締めた娘が周りの光景にショックで立ち止まり、その娘を時折抱きしめたりしながら西への移動手段を探し求めなければならないような切ない思いを娘にさせてしまいました。
しばらく、娘はショックと疲れでしゃべらなくなってしまいました。
そのような出来事から、私達は日本に来ることができて安心しました。
まずは、日本というに安全な国で、高知県のとても親切な方々に優しくしてもらえて、娘の笑顔も戻ってきて安心をしました。
それから、高知県の行政の方々やボランティアの方々は、私達が生活して行けるように助けてくれました、本当にありがたいことだと思っています。
特に、普通の日本の人と同じような社会福祉を与えて頂いたことは驚きました、心の底から感謝しています。
本当なら、私達親子のためにいろいろ助けて下さった方にそれぞれお礼を言わないといけなかったところでしたが、母のことと帰るための飛行機のこととでいろいろ慌ててしまいまして申し訳ありませんでした。
できることなら、再び日本に避難したいですが現状では母を置いていくわけにはいけません。
なんとか、ウクライナが平穏になることを願いつつ日々の生活を送っていますが、いつまで続けることができるかもわかりません。
なので、今急に大きな危険が迫ったときが一番怖いです。
再び、私達家族は大きな判断と決心をしないといけなくなります。
母と別れるか、共に避難するか。
日本の高知県の支援してくださっている皆様には、どうか私の現状をご理解の上、またもしもの際にはご迷惑をおかけすることになるかと思いますが、娘と母を助けていただけますようにお願いするとともに、いろいろとご心配をおかけしておりますことをお許し願います。
パルチューク・ナターシャ
追伸
日本の人達に感謝の意を表したいと思います。
私達の国が非常に困難な時に、避難の地として迎え入れて頂いたことに、私達親子は心から敬意をもって日本の皆様と支援していただいた関係者の方々に感謝しています。
私達はかけがいのない助けを受けました。
日本の皆様、個人的に助けていただいた方々を含めてすべてのことを私達は生涯忘れないです。
理解と尊敬、優しさとおもてなし、誠実さと思いやりは私たちが日本で感じたものです。
避難先と住居を提供してくれました高知県に感謝いたします、この街は心の広い人が住んでいると感じました。
出会った日本の人達は、私の国で起こったことを理解し、ウクライナの人に対して助けたいという思いやりを持っていました。
私達ウクライナの人々は長い歴史の中で幾度の困難な時期を経験してきましたが、これからも私達は崩れることなく強く団結し復興していきます。
ウクライナに栄光あれ!
パルチューク・ナターシャ