2016.05.16 08:30
奇跡の笑顔 全盲・重複障害を生きる(26)起伏の人生 福祉で再起
「ふれ愛名古屋」の鈴木由夫(よしお)理事長(66)が命を断つ覚悟で渡米したのは1999年1月だった。
コンサルタント業を経てマーケティング会社を起業したのはその10年前、37歳。仕事は当たり、40人の従業員を抱えたが、新システム開発で失敗。3億円余の負債を抱え、保険金での清算を考えたのだ。
服毒したが幸い意識を回復。現地での牧師らとの出会いで運命を悟り、やり直すことになったのだが…。
破産に伴う自宅売却で転居をした直後、今度は集中豪雨で堤防決壊。街は水没し被災者となってしまう。
泣きっ面に蜂状態だが、それが次への展開の糸口になるから面白い。鈴木さんはボランティア組織を結成。復旧活動をする傍ら、牧師の勧めで多重債務者の救済にも動いた。「借金自殺からの生還」と題して全国の教会などで講演。相談にも乗ったのだ。
そして3年、52歳。災害復旧が一区切りついたところで福祉に関わる。ボランティア仲間だった重度障害者施設代表者に「手伝ってほしい」と誘われた。
やりがいに目覚めたのは、瀕死(ひんし)状態だった少年を病院で見守っていた時だった。彼は慢性肺炎。42度の高熱を出し、ベッドの脇で祈るしかない。「もう無理か」と覚悟したのだが、奇跡的に回復。ベッドの中からほほ笑んだ。感動だった。
「すごい笑顔でね。今も忘れられないんです。あれで僕の人生は変わったんですよ。『人生いろいろあったけど、こういうことに出合うためだったんだなあ』って心から思えたんですよ。それからですよ、仕事が楽しくなったのは」
ただし、すんなりとはいかない。事情でそこを3年で辞め、別の施設でアルバイトしていた時、重症児を持つ2人の母親と出会った。いずれも小学生。重症すぎて人手がかかるためデイサービスの受け入れ先が見つからず、途方に暮れていたのだ。当時はまだ重症児対象のデイ施設がなく、一般障害児対象の「児童デイ」だけ。重症児はリスクが高いため門前払いに近く、行政に頼んでもらちが明かなかった。
「その時ですよ。『なければ創ればいい』と思ったのは」と鈴木さん。2010年、母2人と一緒にNPO法人を設立。児童デイを開設し、重症児優先で受け入れたのだ。名古屋市内で初の事業所。運営は厳しかったが工夫で乗り切る。そして2年後、追い風が。法改正で重症児デイが制度化されたのだ。
「頑張れば職員も報われるようになったんです。あれで僕らは貧乏生活から抜け出せた。子どもも、お母さんも、スタッフも、みんな笑顔になれたんです。おかげで僕はこうやって、全国回ってお母さんに呼び掛けられるんです」
ふれ愛名古屋は今春、社会福祉法人となり、社会的信用を高めた。年間300人近い視察を受け入れ、出張講演も40回。わずか7年で大成長を遂げたのだ。
転んでも、壁に当たっても、それを糧に乗り越える。山崎理恵さん(50)=高知市=にも通じる強さだった。