1616.01.04 08:00
昭和南海地震の記憶(3)高台から眺めた津波
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吉市徳美の家は、町の中心に近い集落にあった。当時21歳。父と母と3人で暮らしていた。
ガタガタガタ…。突然、激しい揺れを体に感じ、徳美は布団から跳び起きた。地震。木造の家がきしんだ。揺れが収まらず、しばらく続いた。その中、父の大声がした。
「こればあ揺れたら津波が来る。津波が来るぞ!」
幸い、家は揺れになんとか持ちこたえた。父は「みんなあ一番えい服着い。大事なもん持って、山へ逃げちょれっ」と言った。
「大事なもん」が何か、徳美にはとっさに思い浮かばなかった。布団にかけていた綿入りの上着を羽織り、とりあえず毛布を引っつかんだ。母は手に位牌(いはい)を持っていた。
家の裏手に、地元の人が「荒神(こうじん)様」と呼んで親しむ神社のある高台があった。そこへ逃げることにした。高台への道は広くはなく、夜で暗くもあったが、通りなれた道筋だった。
母と2人で荒神様に着き、その後、10分ほどして父も上がってきた。父は、前日にふかしたイモを入れたかごと、おひつを脇に抱えていた。
「はや波が来た」。父がそう言い終えるかどうかという時、ゴォーという轟音(ごうおん)が聞こえた。大津波が宇佐の町を襲う音だった。
徳美は、高台の下の町に目をやった。星明かりの下、鈍く光る物が見えた。目をこらしてよく見ると、大きなトタン屋根だった。あれは「三玉(みたま)座」の屋根だとすぐ分かった。
三玉座は、映画館と芝居小屋を兼ねた娯楽場だった。いったい何がどうなったのか、近所でも目立って大きかったその建物の屋根が波に流されて動いていることに驚いた。暗闇の中の惨状を想像した。
高台には多くの人が集まっていた。徳美の体は小刻みに震えていた。持ってきた毛布をまとっていたが、師走の夜明け前、寒さは体の芯を突き刺すようだった。
傍らですすり泣く女性がいた。その声を聞きつつ、徳美も暗澹(あんたん)たる気持ちになっていた。自分たちの家も結局、津波に流されて、なくなっているのではないか…。
少し明るくなってきたころ、父は持ってきたふかしイモを住民に差し出していた。
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その日の昼頃だったろうか。陽(ひ)が高くなってから、徳美たち一家は高台から下り、集落へ戻った。たまたま場所が良かったのだろうか、自分たちの家は辛うじて残っていた。ふすまの取っ手の少し上まで津波に漬かった跡があった。
辺りは惨状だった。
基礎だけ残して建物が消えた家、骨組みだけ残した家、建屋を失った状態で浜辺に伏す民家の屋根…。近くの造船所から流れてきた材木も家をなぎ倒していた。港から陸(おか)に流され、へさきを民家に突っ込むようにして止まっている運搬用の機帆船もあった。
やっと戦争が終わった翌年。あと10日ほどで正月を迎えるというころ、漁師町は変わり果てた姿になった。=敬称略(報道部・海路佳孝)