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2023.03.19 08:35

北川村を追いかける―村を作りかえたごっくん男 馬路村農協前組合長 東谷望史物語(23)

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◆「村を作りかえたごっくん男」1回目からのまとめ読みはこちらから。

ふるさとまつりに持ち込んだユズ酢の巨大模型

ふるさとまつりに持ち込んだユズ酢の巨大模型

 2021(令和3)年に50回の節目を迎えたフェスティバル土佐「ふるさとまつり」も東谷さんの忘れられない思い出だ。

 第1回は1972(昭和47)年に高知市の中央公園で開かれた。高知市に住んでいた東谷さんは、たまたまそれを見た。

 「市内で働きよったき、偶然見に行ったがよ。(馬路村の販売コーナーは)魚梁瀬の木工品で、ユズはなかった。第2回からユズも売った」

 翌73年にUターンで馬路村農協に転職、79(昭和54)年に営農指導員兼販売課員になってふるさとまつりも担当する。記憶の引き出しの最初にあるのはユズ集めの苦労だった。

 「毎年10月の22日か23日ごろに開催するがやけんど、そのころはユズの量がまだ集まらんがよ。色がつかんきねえ、物をそろえるのがなかなか大変やった」

 並べさえすればユズ酢はよく売れた。

 「県内にもあんまり置いてなかったがよ。そのとき買わんかったら買えんというか、特に搾りたてはそこで買うしかなかったき」

 ユズの横綱といえば馬路村のお隣、北川村だった。幕末、大庄屋だった中岡慎太郎が奨励したという言い伝えが残るユズの里である。1965(昭和40)年ごろから導入し、村ぐるみ、農協ぐるみで作付けを増やしていた。馬路に比べると北川には水田が多い。コメの転作作物として、その水田をユズ畑に変えていく。反対の声も多かったが、成功した農家が渋る農家をけん引した。

 「ふるさとまつり」でも北川村の存在感は大きかった。

 「そらあ、北川の方が売れよったねえ。第1回のスタート時点から北川はユズ一本で勝負しゆうがやき。まあ、だいぶあとには馬路もひょっとしたらえい勝負しよったかもしれんけんど、お互い腹の底は見せんきねえ」

 東谷さんが担当になった当時、会場は現在と同じ鏡川河畔の「みどりの広場」に移っていた。東谷さんは農協婦人部に協力を頼んだ。

 「とにかく一番長いときは朝の2時半まで馬路ですしを作ってもろうた。こんにゃく、タケノコ、シイタケとかを使うたユズのすしで、『馬路ずし』と名前を付けて。これはよう売れた。一番多い日は750パック売れた。婦人部の女性たちを会場まで連れて行って、お客さんの前でちらしずしも作ってもろうた。4升炊きのガス釜を持って行って、多い日には12~13釜炊いた」

 81(昭和56)年の第10回では、高さ4メートルのユズ酢の巨大瓶模型を持ち込んだ。

 「山中直木さんが竹で大きな瓶の形の筒を編んでくれちょったがよ。北川村より目立つもんは何かと考えて、それに新聞紙を張って、ペンキで絵と文字を描いて会場へ持って行った。一升瓶に似せるのに1カ月近くかかった」

 瓶底直径が1メートルで、高さ、直径とも本物の一升瓶の10倍。容量が千倍。迫力はすさまじく、高知新聞でも取り上げられた。

 「目立たないかんと思うて必死よねえ。当時は直販所らあもなかったき、県内で売るチャンスは『ふるさとまつり』くらいしかなかったがよ。あの祭りは集客に力があったねえ。最高に売れたときは3日間でユズ酢の売り上げが200万円。そんなイベント、ほかになかった」(フリー記者・依光隆明)

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