2022.08.09 08:40
今も残る頭の切り傷...長崎で被爆の高知市92歳女性「核兵器なくさないかん」14歳で兵器工場に動員
照子さんの頭部には今でも当時の傷が残る(高知市内の自宅)
照子さんは旧幡多郡大正村(現高岡郡四万十町大正)の出身。地元の国民学校高等科(現在の中学校)を卒業後し、1944年に長崎市の三菱兵器工場に動員された。「兵隊さんも戦場に行っちゅう。行きとうないけど、お国のため」と自分に言い聞かせたが、当時は14歳。親元を離れるのは寂しく「行くまで毎晩泣きよった」。
兵器工場では全国各地から動員された学生ら1万人以上が働き、24時間態勢で主に魚雷を製造していた。寮は3段ベッドで、個人のスペースは畳1枚ほど。食事も今は馬や鶏などの餌に使う大豆の搾りかすを混ぜたご飯に、おかずは干し芋やカボチャの煮物など粗末なものだった。
プライベートな時間はなく、工場と寮を往復するだけの日々。照子さんは「娘で遊びたい盛りやったけんど、服も食べ物もないきね。世の中の雰囲気もどんよりして暗かった」と振り返る。
77年前の8月9日も朝から工場内で魚雷の部品を製造していた。午前11時2分、ピカッと閃光(せんこう)が襲い、気を失った。
どれぐらいたっただろうか、目を覚ますと体はがれきに埋もれていた。工場は爆心地から約1・3キロの距離にあり、全壊。約300人が亡くなり、4千人以上が負傷した。
照子さんはがれきをかき分けて起き上がり、はだしで近くの山を目指した。道すがら、黒焦げの人が所々で倒れていた。気付くと自身も頭から血が流れ、服は血まみれだった。
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