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2022.06.04 08:39

高知北高の名の由来分かった!? 99歳元教頭から裏話 県教委に開校前年の記録【なるほど!こうち取材班】

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創立50周年の高知北高校。8121人が卒業し、現在は547人が通っている(高知市東石立町)

創立50周年の高知北高校。8121人が卒業し、現在は547人が通っている(高知市東石立町)

 ある日の夕刻。「なるほど! こうち取材班」(なるこ取材班)に一本の電話が入った。先日報じた記事「北にないのに『高知北高』なぜ」について「お話したいことがありまして…」と、もごもご。声の主は高知県教委高等学校課の職員だ。はて、先日は「命名の理由は分からない」と言っていたが、新たな展開があったのか。県教委へ向かった。

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 なるこ取材班は5月25日付紙面で、県立高知北高校(高知市東石立町)の校名の謎を追った。同校は1972年に追手前高校定時制と小津高校通信制課程を統合して発足。校舎は高知城の南側にあり、市内の北側にあるわけでもない。県教委や現校長らに命名の由来を尋ねたものの、はっきりした理由は分からないまま。読者に情報提供を求め、いったん筆を納めていた。

■手書き会議録
 早足で向かった県教委の会議室。高等学校課長含め3人に出迎えられた。課長は開口一番、「外からお叱りの電話も受けまして。調べが足りず、すみません」。頭を下げ、やおら長机に資料やファイルをずらり並べた。

 まず手に取ったのは1971年11月の臨時教育委員会の会議録。県議会で「高知北高校」の校名が決まった、およそ1カ月前に開かれた会だ。当時のやりとりが手書きで記されていたという。

 これによると席上、当時の高校教育課長が、高知市内の学校名について「町名、もしくは城を中心として決める慣例がある」と説明。新設する定時・通信制の高校の名称については、追手前高校定時制と小津高校通信制課程の統合本部が小津高定通センターに置かれたことから、「センターは城から見て北に位置するため、北高が有力」「建設時に、この校名が適当でなくなる恐れもある」と説明していた。

 合わせて「健依別(たけよりわけ)」や「海南」といった候補も挙がったが、「いずれも以前にこの校名があり混同する」として除外した、とあった。

 前回紹介した、小津高定通センターに本部が置かれたためではないか、との推測が当たっていたわけだ。小津高が城の北だから、ということだ。

 謎が解けた。ああ、すっきりした。これで続報が書ける。そう思っていたところに、当時を知る人から電話がかかってきた。

■大膳町案?
「居心地の良い学校でした」と話す元教頭の山下碩彦さん(高知市春野町西分)

「居心地の良い学校でした」と話す元教頭の山下碩彦さん(高知市春野町西分)

 北高開校時の1972~76年に教員を務め、80、81年に教頭を務めるなどした山下碩彦(ひろひこ)さん(99)=高知市春野町=だ。

 北高への転任前、在籍していた小津高で「校長に直接、なぜ『北高』かと聞いたこともある」という。校長は冗談めかして「『南の方に高校ができたら(こっちが)北になる』と。(1987年に)本当に南高ができて笑い話になった。それっきり、校名の謎を考えたことはなかった」と振り返る。

 山下さんは後に、県内の定時制通信制高校の歴史を記した記念誌(98年発行)に寄せた文章で、北高の卒業生が「県教委が新設を決めた時点では、大膳町の盲学校敷地を想定していたとのことです」との文を見つけ、そうだったのか、と膝を打ったという。

 大膳町案については、他の読者からも同様の指摘が届いた。どうやら当時、関係者の間で広くささやかれていた裏話のようだ。

 ただ、今となっては、これを裏付ける明確な資料を見つけることはできなかった。県教委の職員も「大膳町案は聞いたことがない。資料にも残っていない」と言う。

■愛ゆえに?
 もう一つ、別の謎も残る。北高は今の場所に移った後に、なぜ改名しなかったのか。県教委の職員は首をかしげつつ、こんな事例を話してくれた。

 「北高より先にできた高知西高校は、当初『高知東高校』でした。移転とともに改名していたんです」

 県教委発行の「戦後高知県教育史」などによると「高知東高校」は1957年3月に設置。高知市北新町(現桜井町)にあった旧城東商業学校(現高知高校)の校舎で授業が始まった。同年12月に、県が鴨部の郡是製糸高知工場跡地を買収。生徒たちは翌年6月、工場などを改修した校舎に引っ越して、7月に「高知西高校」に改称した―とある。

 少なくとも、移転後に改称するケースは前例があった。まして臨時教育委員会でも、北高の校名変更に含みを残していた。ならばなぜ、北高は「北」のままだったのだろう。

 県教委職員は「これ以上は資料がありません」とお手上げの様子。山下さんも在籍時に「校名についての議論はなかったと思う。当時、一緒にやりよった先生らも亡くなってしもうたしねえ」と述懐。それでも「北高はみんな仲良くて居心地が良かった。働きながら学ぶ生徒を支援する学校やき、思いやりがあったね」。

 どうやら、創立20周年記念誌で校名をいぶかしがりながらも、「今となっては『北高』への愛着が余りに強い」と記していた通り、生徒や職員らの北高愛が、名を変えなかった一番の理由のようにも思われる。

 あらためて北高関係者の皆さま。創立50周年、おめでとうございます。(玉置萌恵)

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