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2022.03.10 08:35

「夢の街に住める」抽選に歓喜 県都、団地ブームから半世紀―高知(ここ)に住まう 第2部 ニュータウンは今(1)

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55倍という「狭き門」。熱気のこもった高知県住宅供給公社の瀬戸東団地宅地抽選会(1972年4月、高知市の電気ビル)

55倍という「狭き門」。熱気のこもった高知県住宅供給公社の瀬戸東団地宅地抽選会(1972年4月、高知市の電気ビル)


 ガラン、ガラン。静まり返った会場で、玉の入ったかごが回る。

 じっと見守るのは、子どもを抱いた母親や勤め帰りのサラリーマン。高知市本町4丁目の電気ビルの一室は、立ち見を含め400人以上。ぎゅうぎゅう詰めだ。

 ころりと白い玉。「落選です」と係員。あぁというため息が50回続いた後だった。赤い玉がコロン。「出たー」。家族の絶叫とともに会場はどよめき、万雷の拍手―。ちょうど50年前のことだ。

 1970~80年代、高知市郊外は空前の「団地ブーム」に沸いた。分譲の競争率は、実に55倍にも上った。にぎやかな会場の廊下では、住宅メーカー社員がじっと聞き耳を立て、笑顔で出てきた家族に営業をかけた。

 旧春野町の平和団地の抽選を体育館で見守った石井美恵さん(74)は、当選の玉が出てきた瞬間を今も思い出す。夫と息子2人と、手を取り合って喜んだ。

 「家ができるがで」。長男は翌朝、幼稚園で自慢した。「そら、うれしかったね。夢の街に住めるんやから」

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 戦後社会が急速に発展する中、高知市は住宅不足が深刻な課題になっていた。県人口は55年国勢調査の88万人をピークに減少に転じたが、県都への流入は続いた。55年調査で18万人だった市人口は、25年後の80年には30万人を突破する。

 平野の少ない市では地価が高騰。70年時点では持ち家よりアパートなどの借家の方が多く、賃料も高かった。県は「1世帯1戸」を合言葉に、住宅供給公社を通じて山や田畑を開いた。

 「行政主導で、とにかく住宅を増やせ、という時代だった。議員からも要望が多くてね」。元県公社理事の戸梶邦彦さん(75)が振り返る。

 第1号は69年度の瀬戸団地(346戸)と当時介良村の介良団地(438戸)。75年度に瀬戸東団地(557戸)▽86年には横浜ニュータウン(1800戸)▽90年に南国市の十市パークタウン(1537戸)―と、20年間で18団地を開発。6千世帯の宅地が生まれた。

 民間や他の自治体も次々と参入。79年に平和団地(600戸)、88年に旧伊野町の天王ニュータウン(1400戸)、89年に高知市東部の潮見台(1200戸)などが続いた。地図上の団地群は、市中心部を取り囲むようなドーナツ形を描く。

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 ♪月の光浴びて~あまい恋のうた~

 急な坂の上から、陽気なハワイアンソングが流れてきた。公民館で女性たちが、花柄スカートを揺らしてゆったり踊っている。

 「すごい坂やったろ? ここは高知で一番古いきね」。団地のフラダンスサークルに属する中田康恵さん(78)が、汗をふきふき教えてくれた。

 高知市北部の加賀野井団地は66年から入居が始まった。関西土地(同市)が山を切り、約11万平方メートルを開いてできた619区画。行政への開発認可も必要なかった頃。県内の大型団地の草分けだった。

 売り出し価格は1坪3万円ほど。間もなく、商店街の店主や会社員らが続々と移り住んだ。地価上昇で、数年後には10万円に跳ね上がった。

 坂の下に広がる秦地区は一面の田んぼ。今はそこに、イオンモール高知や高知赤十字病院、飲食チェーンがひしめく。

 「ちょっとした高級団地やった。今はもう、よくある団地やけどね」。50年近く暮らす中田さんが笑った。

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 県都の団地ブームから半世紀。希望を胸に郊外に居を構えた住民たちにも、それだけの歳月が流れた。連載第2部は、「ニュータウン」と呼ばれた地に住まう人々を追った。(報道部・福田一昂)

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