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2022.02.22 08:36

「窪川原発」リコールの熱い春 住民投票は「最後の砦」だった―そして某年某日(14)

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リコール署名に向けた決起集会。当時42歳の島岡幹夫さん=左下の後ろ姿の男性=が拳を突き上げる(1980年秋、国鉄窪川駅前)

リコール署名に向けた決起集会。当時42歳の島岡幹夫さん=左下の後ろ姿の男性=が拳を突き上げる(1980年秋、国鉄窪川駅前)


 さまざまな人や風景の「ある日」「そのとき」を巡るドラマや物語を紹介します。

島岡さんと妻の和子さん。米や酒米、野菜を育てる(四万十町本堂)

島岡さんと妻の和子さん。米や酒米、野菜を育てる(四万十町本堂)

 高岡郡四万十町窪川で農業を営む島岡幹夫さん(84)は、今も妻の和子さん(85)や家族と、米や野菜の無農薬栽培に励む。

 2011年の福島第1原発の事故後は、「よくぞ止めてくれた」という声を、よく人々に掛けられる。止めた? 何を? 今や知る人も減った。

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 「窪川原発」の計画は1970年代に浮上。80年に入ると、藤戸進町長が推進側に転向、中内力県知事も立地を公言した。四国電力は「窪川は最適地」と発表し、海岸の隔絶集落、大鶴津が候補地とされた。

 島岡さんは同町松葉川に生まれ、窪川高を卒業後は大阪府警に就職、夜間は大学で法律を学んだ。結核にかかって帰郷後は島岡家に婿入り。牛飼いに始まり、農地で稲作に励み、冬場は関西へ一時出稼ぎをした。

 計画を知るのは30代半ば。農業の傍ら自民党支部の役員をしていたが、当初から原発誘致に反対を唱え、「窪川は農業に生きるべきだ」と訴えた。

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 80年5月13日。町内で開かれた共産党主催の集会に自民党員として一人で参加し、「保守と革新の結集」を初めて説く。「よし島岡に任そう」となる。

 組織づくりや署名集めが始まった。島岡さんは辻々を宣伝カーで回り、夜は学習会。

 候補地も歩き回った。地権者と相談し、合名登記をした。戦後開かれた通称「荒平山」の開拓農地跡に分け入り、県外に去った人々の係累をたどり、土地を売らないように頼んだ。

 10月8日は反対派代表として町議会に呼ばれた。

 コンバインで稲刈りをしていると町職員が迎えに来て、特別委員会で陳述せよという。寝耳に水だったが車に乗り、土だらけの野良着で演台に立った。

 農業データをそらんじて語る即興の演説は見事だったが、「推進派議員が金をもらった」と発言して紛糾。総立ちの騒ぎとなる中、自民党の元議員、谷脇溢水(ますみ)さんが傍聴席から演台によろよろ歩み寄り、マイクを横から取り、島岡さんの味方をした。「皆さん聞いたか。金の話が出た。自分は原発推進派の代表だが、今から辞退する。彼に協力する」と言い放ち、賛同する傍聴者も現れた。

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 町議会は原発賛成派の陳情を採択し、これを受けた10月24日、正式に原発立地調査を四電に申し入れるため、藤戸町長が公用車に乗り込んだ。

 徒党を組み抗議する島岡さんらを警官や機動隊が見張る中、議会で味方してくれた谷脇さんが、車の真ん前に現れた。

 両手を大きく広げ、寝転がる。「進、電力行くやったら、おれをひき殺して行け」。谷脇さんは町長と同じ集落の出身で、長老と後輩の間柄だった。当時83歳。警官らに抱えられ、のけられていく姿を見て、島岡さんは胸が詰まった。

 「もうリコールしかない」。島岡さんが口火を切った。

 「住民投票」で自治体首長を解職させることができるリコール制度を知る人は当時少なく、「幹ちゃん、リコールち何ぜ?」という声も多かった。

 島岡さんはここぞとばかり、かつて夜間大学で薫陶を受けた教授の言葉を伝えた。

 「住民投票こそが、民主主義の最後の砦(とりで)だ」

 その夜にリコール運動組織を結成。会長には町の農業振興に長年励み、信望の厚い野坂静雄さんが適任だ、となった。

 野坂さんは渋る。島岡さん、和子さんらは連夜通ったが、家に上げてくれない。数人で門前にべたっと座り、頭を下げた。1週間後、やっと門扉が開く。「ほかにおらんなら、僕がやろうか」。この時は和子さんが泣いたという。

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リコール投票日。緊張して開票結果を待つ島岡さん=右端=と野坂静雄さん(1981年3月8日夜)

リコール投票日。緊張して開票結果を待つ島岡さん=右端=と野坂静雄さん(1981年3月8日夜)

 81年1月20日、リコール運動がスタートした。

 一般選挙よりも規制の緩やかなリコールは、集会、大型車の街宣などもほぼ自由。人口1万8千の町は昼夜騒然とした。

 町長の解職に反対する原発推進派も連日集会を開く。東京から自民党幹事長らが大挙して乗り込み、県知事とマイクを握って演説し、立地調査に伴う地域振興策を約束した。

 和子さんたちは相手方の宣伝カーを追って走り、「今言った話はウソです」と真後ろからマイクで叫ぶ。賛成、反対をあおる看板は10メートルおきに延々と並ぶ。夜は集落の入り口で火をたく「見張り番」が現れた。

 島岡さんが海辺の集落でマイクを握ると、大敷網の補修に使う小型の包丁で誰かに脇腹を刺された。3針のけが。帰りの坂道は地元の仲間の若者に警備されて帰った。「毎日命懸け。よう死なずに済んだわ」

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町長解職請求の署名簿を提出する島岡さん=中央=、谷脇溢水さん=右端=ら(1980年12月22日)

町長解職請求の署名簿を提出する島岡さん=中央=、谷脇溢水さん=右端=ら(1980年12月22日)

 日本初の原発を争点とするリコール投票は3月8日、全国注視の中で実施された。

 負ければ事実上の「原発受け入れ」。野坂さんに問われ、「必ず勝ちます」と内心は震えながら言った覚えがある。

 深夜の開票は賛成6332。反対5848。リコール成立。新聞各紙は1面で報じた。

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 原発はその後も町を揺らした。藤戸町長の復職当選、島岡さんら反対派の議員出馬と当選、全国初の町民投票条例制定を経て、88年、町長による断念の表明などで終結する。

 事実上の撤退に至った理由を四電や県は「電力需要が後退したため」などとした。しかし島岡さんは「実際の理由はそうではない」と断言する。

 「予定地への合名登記、海洋調査への地元漁協の拒否、県漁連の反原発決議で行き詰まった。これが一つ」

 「そして最大の理由は、原発リコールを通されたからだ。住民投票という手段を使われたことで、大組織と一握りの人間が金と圧力で推し進めてきた原発の立地手法に、完全にくぎを刺された。あの日がなければ原発は間違いなく動いていた」

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 苦しかった「戦争」の日々のハイライトは、やはりリコール投票の夜だ。歓喜の群衆の中、胴上げされたのは野坂会長と島岡さんだけ。「幹ちゃんをこのまま、向こうの(推進派の)事務所に放り込むぞ~」と誰かが叫び、また誰かが「それはやめちゃれ~」と叫んだ。

 「しんどかったわねぇ」と和子さんが遠い目で言った。(石井研)

高知のニュース 四万十町 そして某年某日

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