2021.12.21 08:44
壮絶「あの日」の揺れ 家々崩れ火の手、膝上まで津波 いずれ来る日へ教訓を 南海地震75年
地震が引き起こした火災で多くの犠牲を出した旧中村町。がれきの間を歩く人々(1946年12月)
旧中村町(現四万十市中村地区)は、家屋倒壊と火災で県内最大の273人が犠牲に。同市九樹の浜田充彦さん(92)は目の前で親類を亡くした。
当時は幡多農林学校(現幡多農高)の生徒で、中村町於東町の母親のいとこ宅に下宿。母のいとこの「おばさん」と、その夫の「おじさん」、夫妻の養子「タダオ」と4人で暮らしていた。
最初、揺れに気付かなかった。同じ部屋で寝ていたタダオが走りだし、つられて外へ。「家の外でおばさんが立ってた。家を振り返ると、平屋の家は倒れ土煙が立っていた」
周囲の家々も崩れ、「お父さんっ」「お母さんっ」という叫びが響いていた。遠くで火の手が上がった。この火災で親友が命を落としたと後で知った。
おじさんの姿がなかった。倒れた家の板を夢中ではいだ。タダオが手を突っ込むと、先に布の感触。おじさんの寝間着だった。近くのバス整備工場からジャッキを借り、積み上がった板を少しずつ上げて引っ張り出した。
「軒下に立っていて倒れたらしい。腹が切れて亡くなってた。音楽の先生で、学校の校歌も作曲した人。ええ人じゃった」。下宿のあった場所に立ち、遠い目でそう話した。
高知市では231人が死亡した。同市鴨部2丁目の松本三三男さん(91)は当時、浦戸湾に注ぐ長浜川の河口そばで母と弟と暮らしていた。旧制城東中学校(現追手前高)の5年生。教師になるため、高等師範学校の試験に備え、徹夜で勉強していた。
「ガクっときて『爆弾!』と思った。戦争は終わっていたが、空襲の恐ろしさが染みついていた。地震とは全く思わんかった」
家の前に出ると、暗闇に「ゴォー」と響く音。長浜川を逆流してきた津波で木船が押し流され、橋にぶつかる音だった。ただ、それが分かったのは夜が明けてから。
「山じゃ。山へ逃げぇ」。大人の叫び声が上がった。つぶれた船が堰(せき)になり水があふれていた。膝上まで漬かり、母と怖がる弟と手をつなぎ高台へ。流れに押されるように逃げた。暗闇に迫る水の感触は今も残る。
「揺れよりも、海の水が怖かった。地震と天気、人の運は知恵ではどうにもできないと思い知らされた」
しばらくした後、浦戸湾の巡航船で学校に向かった。いつも下船していた同市桟橋5丁目は「全部、海やった」。船は地盤沈下した下知地区を大回りで避け、鏡川河口で降りたという。
旧上ノ加江町(現中土佐町)にも津波が襲った。
高知工業学校(現高知工高)2年だった森下佳把(かとる)さん(89)=高知市新屋敷=は、上ノ加江町の祖父母宅で揺れに見舞われた。
はいながら外に出ると、庭の二つの土蔵はぺしゃんこ。近くの自宅前にいた母と妹を連れ、神社の境内へ。大勢が無言で立ちすくんでいた。
「津波が来るぞ」という大声とともに、全員で標高30メートルの山に登り、さらに80メートルの衣笠山を登った。津波が川をさかのぼる音が、背後から地鳴りのように聞こえてきた。
当時15歳。動転していた。全員無事だったが、揺れの中で祖父母らの安否を確認する余裕はなかった。「情けない」と今も悔やむ。
この揺れがいずれまた来る。かつての自分と重ね、こう伝えた。「地震の時に『しっかりせえ』『落ち着け』と言っても無理。慌てていても逃げられるよう、いつも避難先を考えておくことです」(村上和陽、八田大輔)
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地震の揺れで橋桁が落下した旧中村町の「赤鉄橋」(1946年12月)
《証言》
れんが塀で犠牲
安岡幸男さん(81)室戸市室戸岬町
当時6歳。大きな揺れで親にたたき起こされ、寝ぼけ眼の弟と裏山に逃げた。集落にはれんが塀が多く、倒れた塀で近所のおばあさんと若い娘さんが亡くなった。私の家もれんが造りで何カ所もひびが入った。南海地震前はスルメイカが異常に捕れた。以来、地震のたびにその話が出る。
避難者の列が
田中宮子さん(89)高知市塩屋崎町
14歳だった。高知市塩田町の自宅で、父が「外へ」と。家の外でも何度も揺れ戻し(余震)が来て、繰り返し転倒した。家は屋根瓦が落ち、2階の板壁がはがれた。防空ずきんや毛布をかぶって避難する人の列ができていた。寝間着のままだったが、怖さが勝って寒さは感じなかった。
赤鉄橋落ちた
渡辺正伊さん(92)三原村宮ノ川
四万十市百笑で下宿中だった。家は大丈夫で、通っていた幡多農林学校へ向かうと、中村の町は壊滅状態。倒壊した家の屋根を跳び越えて歩いた。帰り道に赤鉄橋が落ちていてびっくりした。後日、学生が駆り出され、同級生たちと後川の堤防補修工事をしていたのを覚えてます。