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2016.01.12 08:00

昭和南海地震の記憶(10)食べ物も毛布もなく

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 屋根の上に座り、浸水した町をぼうぜんと眺める住民(高知市の下知地区)

 屋根の上に座り、浸水した町をぼうぜんと眺める住民(高知市の下知地区)

 浦戸湾に注ぐ高知市の国分川。その下流に架かる葛島橋の西岸の堤防が決壊した。

 堤防が壊れたのは最初の揺れの時だったのか、その後だったのか。ただ、空が白んだころには、切れた堤防から町へ水がどんどん流れ込んでいるのを見た、という証言がある。

 決壊地点から西へ1キロほどの所にある日の出町では、懸命な救出作業が繰り広げられていた。

 「まだ主人と子どもがおる。助けて!」

 15歳の岸田康彦は地震からまもなく、そんな叫び声を聞いた。康彦が住んでいた平屋の家は隣家に倒れかかるように壊れたが、家族6人は皆無事だった。声は、家が倒れかかったのとは反対側の「秋山」という隣家の奥さんだった。

 近くにいた5人ほどでがれきを取り除きにかかった。道具は何もなく、手作業になった。

 「津波が来るぞっ」

 傍らをそう叫びながら走っていく人たちがいた。日の出町のある下知地区は低湿地の「海抜ゼロメートル地帯」だった。そこへ水が襲おうとしている。

 家の前に昭和国民学校があった。早くそこへ逃げるしかない。

 「急げ!」「もう水が来ゆうぞ!」

 康彦たちは必死で手を動かした。がれきの下に「秋山」のご主人が倒れているのを見つけた。梁(はり)の下になっていた。呼び掛けても動かない。

 ご主人の腕の中に、2歳になる子どもが抱かれていた。子どもは気を失っていたが、息はあった。

 誰がその子を助け出したか、その後、ご主人の体がどうなったのか、康彦はよく覚えていない。水はもう、康彦のくるぶし辺りまできていた。時間はなかった。

 「急げ」「早う、昭和へ」「早う!」

 口々に叫びながら学校に走った。増してくる水かさと競走するように校舎に駆け込んだ。2階へ上がった。まもなく、校舎の1階が水没した。

     ■   ■

 康彦は履物を履いていなかった。家から出る時、履物を探す余裕などなかった。師走。それでも寒さは感じなかった。地震直後は、寒さより怖さが勝っていた。

 校舎には200人ほどが着の身着のままで集まっていた。康彦たちは2階から町を見下ろした。

 寄せた水はいったん引き、その後また増え始めるという動きをしていた。下知地区一帯が濁流にのまれ、たくさんのがれきや家財道具が流されていた。

 西方の市中心部も惨状だった。街は前年の高知空襲で焼け野原になり、バラックの家も多かった。それらの建物が次々に倒壊した。堺町にあった文化ビル(元野村デパート)では、空襲で焼け出された人らが身を寄せて暮らしていた。鉄筋コンクリート4階建てのそのビルも崩れ、生き埋めになった人もいた。

 空襲で大きな被害のなかった下知も水にのまれた。「この世の終わり」とさえ康彦は思った。食べる物もなければ毛布もなかった。

 日が暮れた後、カンテラの明かりをつけた小舟が学校に近づいてきた。「タケボウ」と呼ばれる男性が運んでくれたイモの煮物を康彦は一つだけ口に入れた。

     ■   ■

 県発行の南海大震災誌や高知市史によると、高知市の浸水は下知地区や潮江地区を中心に約千ヘクタール(1ヘクタールは1万平方メートル)にも及んだ。当時の高知市の人口約14万人のうち、約2万人が被災した。

 市は昭和国民学校や神社、劇場など21カ所を被災者の避難所にした。避難所の人数は数日のうちに約3千人に達した。食料の調達は困難を極め、市は地震の2日後、「被害僅少地域よりの非常食糧救援を懇請」した。=敬称略(報道部・海路佳孝)

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