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2016.01.11 08:00

昭和南海地震の記憶(9)引き潮 鏡川の底見えた

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 昭和南海地震が起きた時、県中央部の高知市は地盤が1メートル余り沈降したことが後の調査で分かっている。

 市内で3千戸以上が全半壊し、多くの人が家の下敷きになった。川沿いの堤防も各所で損壊した。そこへ浦戸湾から津波が遡上(そじょう)してきた。

 市内の死者は231人。これからつづる話は、特に被害の大きかった市東部の「下知地区」や南部の「潮江地区」で地震を体験した人たちの記憶に基づく。

     ■   ■

 21歳の岸田一(はじめ)は、土手の上から見る光景に目を疑った。鏡川の水位が上昇し、上流に向けて急速に逆流していた。

 一の家は北新田町の土手沿いにあった。鏡川の南側に広がる潮江地区の北東部。東の方に五台山も見える。鏡川の河口に近く、対岸には若松町や九反田などの町があった。

 一が土手に上がったのは、誰かに助けを求めるためだった。さっきの地震で家がつぶれた。そこに母、繁野(しげの)が取り残されていた。

 木造2階建ての2階で一は寝ていた。激震をやりすごし、壊れた家の中で階段を下りようとすると、わずか1段、2段いった所が階下になっていた。1階がつぶれていた。母はその1階で寝ていた。

 がれきの中からうめき声が聞こえた。隙間をかき分けると、布団の上で横たわっている母が見えた。体にたんすがのしかかり、さらにそのたんすの上に梁(はり)が重しのように倒れていた。

 「大丈夫か?」

 「苦しい、苦しい」

 手を伸ばすと、繁野の手に触れることができた。なんとか母を助けようと、しばらく努力したが、どうにもならなかった。「人呼んでくるき、ちょっと待ちよれよ」。一はそう言い残して、土手の方へ向かった。

 土手の上の道には、もう多くの人の姿があった。風呂敷包みを抱えている人もいる。皆、上流の方に向けて急いでいた。同い年の友人が一を見つけて声を掛けてきた。

 「早う逃げんか、津波が来るぞ!」

 今しがたまで遡上していた鏡川の水は、ほどなくして急速に引き始めた。津波の前の引き潮だった。水位は川底が見えるほど激しく下がっていた。

 母を置いて逃げるわけにはいかない。家にとって返した。隣に住んでいた叔父と一緒に角材をがれきに差し込んで、母を助けようとした。がれきはなかなか持ち上がらない。叔父は斧(おの)で柱を壊し、母の体の上にあったたんすも壊した。母をやっと外へ引きずり出した。

 幸い、母の意識ははっきりしていた。庭にむしろを敷き、そこへ寝かせた。揺れが起きた時、どうして早く家の外へ逃げなかったのかと一は聞いた。母は、自分はいったん外へ出たが、2階で寝ていた一のことが気になって再び家の中へ戻ったのだと言った。

     ■   ■

 一らが一息つくのと相前後し、浦戸湾からは次々と津波が押し寄せていた。潮江地区は濁流に漬かった。

 中央気象台・高知測候所の地震計が昭和南海地震の揺れを感知したのは、1946年12月21日の午前4時19分38秒。記録によると、浦戸湾口の浦戸地区には地震発生後30分ほどで第1波の津波が到達し、その後、高知市には3波、4波と来た。余震も続いた。

 一の家の東側で、鏡川と国分川が浦戸湾と一つになっていた。その国分川の堤防も各所でひびが入った。葛島橋の西岸付近では堤防が約40メートルにもわたって決壊し、水が町に入り始めた。

 下知地区では、倒壊した家の中に残された人を助け出そうと、必死の救出作業が続いていた。=敬称略(報道部・海路佳孝)

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