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2016.01.09 08:00

昭和南海地震の記憶(8)「足を切ってくれ!」

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 地震直後に広がった猛火で多くの人が焼死した中村町本町付近

 地震直後に広がった猛火で多くの人が焼死した中村町本町付近

 家の倒壊で父を亡くした中村町の芝千里(ちさと)は、父のほかにも身近な人たちを亡くしている。

 近所に住む「てっちゃん」は、17歳の千里と同い年で、小さいころは家の前の通りでよく一緒にビー玉遊びをした。中村高等女学校に入ってからは年頃になったせいもあり、てっちゃんが前から歩いて来ても顔をそむけたが、気心は知れた仲だった。

 てっちゃんの死は、近所の人から聞かされた。

 てっちゃんは崩れた家の下敷きになった。太い梁(はり)に足を挟まれ、身動きが取れなくなっていた。そこへ火が回ってきた。

 「足を切り落としてくれーっ。早う、早う!」。迫る火を前に、てっちゃんは何度もそう叫んだ。

 しかし、周りにいた大人たちはどうすることもできなかった。てっちゃんは母親の名前も叫んでいた。火にのまれ、てっちゃんも母親も亡くなった。

 千里の近所に住んでいた「優しいおばあさん」も家の下敷きになり、火事で死んだ。

 なんとか家の外へ出られていたおばあさんの息子は、目の前で母親が猛火に包まれるのを見るしかなかった。周りの住民が言うことには、息子は焼け落ちる家の前で「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と手を合わせて念仏を唱えていたという。

     ■  ■

 本稿を書き終えていた8日午後、1人の男性が高知新聞社を訪れた。中村町で同級生が亡くなった、という。その同級生というのが「てっちゃん」だった。

 てっちゃんの本名は安田鉄男。男性と同じ幡多農林学校に通い、毎朝一緒に登校する仲だった。

 「安田君はね、母親と2人暮らしやった。鉄棒で大車輪をやるような身軽な男でね。家がつぶれて足首だけ敷かれちょって、『この足首を切ってくれ。切ってでも出してくれっ』と」。男性は「彼は苦学してでも勉強する、と言いよった。中村のことを書くなら彼のことも記しておいてほしい」と友人との日々を追想した。

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 中村町は一夜にして廃虚になった。町内のほとんどの家は崩れ落ち、がれきの風景が広がった。

 未明に地震が起きた12月21日、中村町は午後から雨になったが、火は長い間くすぶり、辺りは焦げ臭かった。警察の記録によると、中村町の火災の鎮火は22日午前1時だった。

 千里はなかなか現実を受け止められずにいた。倒壊した家から父の遺体を出したのは21日、周りが明るくなってから。町内の親戚の人たちがのこぎりなどを使って、がれきをのけてくれた。

 遺体は翌日、後川の河川敷へ運び、さらにそこから四万十川河口に近い八束村まで舟で運ぶことになった。八束村にいる親戚の家で葬式を上げてくれる話になっていた。

 千里は河川敷までの道のり、父を担架に乗せて歩く親戚たちの後ろをとぼとぼとついて行った。遺体と一緒に舟に乗った。

 中村町では多くの犠牲者のため、ひつぎが足りなくなっていたが、そのひつぎも八束の親戚が用意してくれていた。次の日、葬式をあげた。11年前に亡くなった母と一緒の墓に父を埋葬した。

     ■  ■

 千里は2年後に結婚し、その後町を離れた。今は森姓になり、千葉県松戸市で暮らす。

 86歳の森千里さんを訪ねると、当時の地図を書いて記憶をたどってくれた。

 「(父は私の手を引いて)一足前を行ったばっかりに亡くなったんです。火事さえなければおばあちゃんもてっちゃんも亡くならなかったでしょう。本当に涙が出ました」

 少女だった千里さんが舟で下った四万十川の河川敷では、70年前の冬、多くの煙が立ち上っていた。地震による死者が火葬される煙だった。

 中村市史によると、地震当日からの3日間だけで150遺体が河川敷で焼かれた。中村町では全世帯の約9割に当たる2100戸余りが全半壊または全焼し、町内の死者数は合わせて273人に達した。県内の市町村で最も多い犠牲者数になった。=一部敬称略(報道部・村上和陽)

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