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2016.01.06 08:00

昭和南海地震の記憶(5)轟音 意識が遠のいた

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 幡多郡中村町は「土佐の小京都」として栄えてきた。四万十川と後川に挟まれた町には縦横に道が走り、大きな通りには一本一本名前が付いている。明治、大正期に建てられた商店や民家も多く、1946年当時は1万人近くが暮らしていた。

 永野恵(けい)の家は、一条通から南に入った所にあった。木造2階建てで、北隣には警察署員が暮らす平屋の官舎があった。南に田畑が広がり、夏になるとウシガエルの鳴き声が響いた。

 家から一条通を少し西に行くと、土佐一條家の御所跡に創建された一條神社がある。地元の人たちは「いちじょこさん」として親しむ。18歳になる恵も小学生時分は、神社の前を通るたびに頭を下げた。

     ■   ■

 恵は終戦翌年に中村高等女学校を卒業し、和裁や料理を学ぶ専門学校に通うようになっていた。学校近くの四万十川には赤鉄橋が架かる。戦時中、勤労奉仕で川向こうの具同地区の畑に行くのによくこの橋を渡った。小柄な恵にとって、草刈りはなかなかつらい作業だった。

 家では八つ上の兄夫婦と、3歳下の弟、両親の6人で暮らしていた。兄はニューギニアへ出征後、病気のため命からがら高知へ戻ってきていた。前年の空襲では20人近くが亡くなり、外地での死者も含めると200人以上の町の人が戦争で命を失っていた。

 このころ、食料は依然として配給に頼らざるを得ない部分があった。家の縁側には、いつも配給のイモが入った俵が置いてあった。恵はなぜかその情景が気に入らなかった。

 「お母ちゃん、こんな所におイモさんを置いて、みっともない」

  母の留於(とめお)に時折そんなことを言った。「そんなに言わんでええ。しびって食べられんなったら大変でしょ。大事な食料ながやけん」。母は目を向けるでもなく、繰り言をあしらった。

     ■   ■

 12月20日の夜、4歳のミチヤスが恵の家に泊まりに来ていた。神奈川県にいるミチヤスは、母親の実家がある中村によく遊びに来ていた。近所の恵の家にも出入りし、恵もかわいがった。

 「お父ちゃんがおらんけん、今日はここでみんなで寝よう」

 恵の母、留於が言うと、ミチヤスは「やったーっ」と喜んだ。県職員の父、栄次は、泊まりがけで清水町へ出張していた。恵もミチヤスと少しでも一緒にいたいと思っていて、うきうきとした気分だった。

 兄夫婦が2階に上がると、1階北側にある8畳の部屋に、長火鉢をよけるようにして布団を敷いた。弟も一緒に4人で横になった。

     ■   ■

 何時だったのか。突然のことだった。体の下の布団が宙に浮いたように感じた。いったい何が起きたのか理解できなかった。しかし、そう時間をおかず、正気になった。

 「地震!」

 そう叫んだ。母と弟が体を起こしているのが見えた。恵は縁側に一番近い所にいた。とにかく外に出なければと思った。

 しかし、揺れが大きかった。立って動くことができなかった。はいつくばりながら障子を開け、縁側に出た。

 庭に面した雨戸を開けようとした。

 その時だった。

 山が崩れたような轟音(ごうおん)が響いた。意識が遠のいた。=敬称略(報道部・村上和陽)

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