2016.01.01 08:00
昭和南海地震の記憶(1)潮が 急に いごいた
自宅近くの避難路を上る浜田芳三さん。70年前、地震が起きた時、海の上にいた(土佐市宇佐町、岡崎晴光撮影)
県道23号が湾のカーブに沿って曲線を描き、人と車を行き来させる。道路から山側に向けては下り坂。その土地の下がりきった所に土佐市宇佐町の町が広がる。県道は、町を高波から守る堤防の役割を果たしている。
浜田芳三(よしみつ)さん(82)の家は宇佐大橋のたもと、福島地区にある。50代半ばまでカツオやマグロの漁師として働いた。長く太陽と潮にさらされた顔は日に焼け、年相応の年輪が刻まれている。
70年前の「あの日」のことを詳しく話してくれる人はいませんか―。そうやって宇佐の町を尋ね歩き、行き着いた一人が浜田さんだった。「かまんですよ」。浜田さんはそう言い、問われるままに述懐を始めた。
父は腕のいい漁師だったねえ。自分も小学校を卒業した後、漁に出始めたんですよ―。そんなふうに経緯をたどり、話は「1946年12月21日」に近づいていく。あの日も朝早くから父と漁に出ていた。
「潮が急にいごいてね。そりゃあ、怖かった」
冬の薄日が差し込む玄関の上がり口。浜田さんは正座したまま、記憶をたぐった。
■ ■
「明日もようけ釣れるろうな」
13歳になる少年の芳三は、父の丑之助と漁の準備をしながら思っていた。翌日の漁には長兄の文男も一緒に行くことになっている。人手が多くなる分、いつもよりいい釣果になるだろう。
芳三は、前年春に国民学校の初等科を卒業した。5人きょうだいの4番目。一番下の弟は三つほど下だ。学校を出た年の夏、戦争が終わった。芳三は、少しでも働いて親の助けになりたい、と父と一緒に漁をすることにした。
ふだんは穏やかな父も、舟の上では厳しかった。芳三が釣り上げた魚の取り込みに失敗した時など、「そんなことでどうすら!」と激しく怒鳴った。
家から海までは150メートルほどしか離れていない。途中に松林があり、その向こうに砂浜が広がる。海は遠浅。帆と2本の櫓(ろ)が付いているだけの1トンほどの舟は、浜に引き上げて置いてあった。この辺りでは多くの漁師がそうしていた。
荷物の積み込みは浜でできるから、そうつらくはなかったが、年の瀬の12月、浜の風は冷たかった。翌日の漁に備え、舟にジャンパーを放り込み、炭を詰めた火鉢も積んだ。舟の上で小魚を焼いて食べるために使うのだ。
目を覚ますと、母の種尾が木のおひつに3人分の弁当をこしらえてくれていた。午前3時半ごろ、父と長兄と連れだって家を出た。
芳三は朝早いのがつらく、目をこすりながら浜まで歩いた。ただ、今日の漁は楽しみだった。このところなぜだか、アジの好漁が続いていた。だからこの日、長兄も手伝ってくれることになった。
暗闇の中、舟を波打ち際まで運んだ。3人が次々と舟に飛び乗った。
12月21日未明、行く海の上には満天の星が広がっていた。ほどなく、土佐沖の海の底が激動した。=一部敬称略(報道部・海路佳孝)