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2021.12.11 08:30

月刊マル地スポ 走攻守そろい将来期待も…プロ野球・オリックス退団の西浦颯大(明徳義塾高出身)全力で駆けた野球人生

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1年に及ぶ闘病生活の末、今季限りでユニホームを脱ぐオリックスの西浦颯大。第二の人生へ視線は前を向いていた(10月10日、高知市の春野球場=山下正晃撮影)

1年に及ぶ闘病生活の末、今季限りでユニホームを脱ぐオリックスの西浦颯大。第二の人生へ視線は前を向いていた(10月10日、高知市の春野球場=山下正晃撮影)

走攻守でファン魅了 難病経て引退 次の舞台へ
 25年ぶりにパ・リーグを制し、日本シリーズに挑んだオリックス。栄光の2021年シーズンに、一人の選手がユニホームを脱ぐ。明徳義塾高から入団した西浦颯大(22)。走攻守そろった外野手として将来を期待されながら昨年、国指定の難病を発症。1年近い闘病生活の末、引退を決めた。このほど来高していた西浦が、4年間のプロ生活と引き際、そしてこれからを本紙に話した。

 10月10日。春野球場に、西浦はいた。グラウンドでは高校野球秋季四国大会高知県予選の決勝戦「明徳―高知」が行われている。

 「今思ったら、高校生がここでホームラン打つんてすごくない?」

 スタンドから試合を見詰めながら、西浦が同級生らに冗談交じりに話した。

 本人の言葉通り、パンチ力のある打撃が魅力の打者だった。そして抜群の守備センスを誇る外野手であり、俊足が武器の走者でもあった。

 馬淵史郎・明徳高監督をして、「野球センスも身体能力も、自分が明徳で見た中では間違いなく五本の指に入る。本当なら、今ごろは1軍でばりばりやっていたはずで、残念の一言」と言わしめた逸材。実際、明徳高では1年秋からレギュラーに定着し、2年夏の甲子園で放った満塁本塁打は、高校野球ファンの記憶に残る。プロ入り後も強肩、好守の外野手として数々のファインプレーで本拠地・京セラドームを沸かせた。

勇気
 衝撃的なプレーだった。

 2020年9月20日。本拠地でのオリックス―西武戦。初回の守り、2死一、二塁で打席には西武の5番メヒア。球界屈指のパワーヒッターがかっ飛ばした強烈な打球はセンター方向へ。中堅の西浦は打球から目を離さず、落下点に全速力で快足を飛ばす。

 フェンスがみるみる近づくが、西浦はスピードを落とさない。それどころか、勢いそのままにジャンプ。外野フェンスにめり込みながらもボールを落とさなかったスーパープレーに、スタンドから大きな拍手が巻き起こった。

オリックス―西武戦で、西武・メヒアの飛球をフェンスにめり込みながらも好捕した西浦(2020年9月、京セラドーム)

オリックス―西武戦で、西武・メヒアの飛球をフェンスにめり込みながらも好捕した西浦(2020年9月、京セラドーム)

 「そもそも僕じゃなかったら、(飛球を)捕りにいっていないと思う」。本人があの日のプレーを振り返る。「『フェンスにぶつかってもいい』『けがしてもいい』って思ってプレーしていたので。そんなやつ、プロでもあんまりいないでしょ」

 一球一打にすべてを懸けてきた。「勝負はたった一球で変わってしまう」ことを知っていたから。

 そういう意味では、高校2年の夏のグランドスラムは象徴的な一発だった。

明徳高2年の夏の甲子園3回戦で満塁本塁打を放つ西浦。この時、右手の薬指を骨折していたという(2016年8月、甲子園)

明徳高2年の夏の甲子園3回戦で満塁本塁打を放つ西浦。この時、右手の薬指を骨折していたという(2016年8月、甲子園)

 「あの時、実は右手の薬指を骨折していたんです。突き指して、すごく腫れて。骨折当初は手袋が入らないから薬指のところだけ引きちぎったりして…(笑)」。甲子園の時もまだ治療途中。普段はズキズキ、ズキズキと痛んでいた。

 「なんでそれで打てたか? 打席に立った以上は、まあバットは振っちゃうじゃないですか。で、どうせ振るなら、思い切り振った方がいい。びびって中途半端にやるよりは、勇気を持ってやった方がいい。いつもそう思っている」

 印象に残るプレーの裏には、貫いた哲学があった。

即決
 20年シーズンの最終盤。リーグも残り5試合ほどとなったこの時期に、西浦は1軍への再昇格を果たす。ただ、それと前後して股関節周辺に「ひどい筋肉痛」のような痛みを感じるようになっていた。

 1軍の試合に何試合か出場したが、痛み止めを多量に飲む様子を見かねたトレーナーが声を掛け、病院で受診。「両側特発性大腿(だいたい)骨頭壊死(えし)症」と診断された。

 大腿骨の先端部が壊死し、股関節などに痛みが生じる難病。過去に、同じ病気で手術したアスリートはいない。医者から「8割強、復活は難しい」と厳しい宣告を受けた。

 それでも、西浦は「じゃあ僕が最初に復活してやろう」と宣言した。「言うのはただですから」。当時を振り返って笑った後、「周りの人を心配させたくないっていうのもあったし、自分を奮い立たせる意味もあった」。

 股関節にドリルで穴を開け、骨盤から削った骨を埋め込んで移植する手術を左右の脚で1度ずつ。「地獄のような痛み」を乗り越え、しかも術後10日間は「寝返りも自分では打てない。看護師さんに頼むんですけど、あんまり頼んじゃ悪いじゃないですか。だから1日1度ぐらい。お見舞いも制限されていた時期で、あの時間は、きつかった」。

 ただ、どんなにつらくても「自分で決めたこと」と周囲には前向きな姿勢を見せた。SNS(会員制交流サイト)に術後の自身の様子をアップ。ティー打撃をする様子を載せたこともあった。

 多くのファンが、「奇跡の復活」を待った。しかし、そんな願いとは裏腹に病状は悪化する。特に左脚は「骨が沈んできている」という深刻な状態で、医師から「(復帰は)厳しい」と告げられ、引退を決めた。

9月に行われた2軍での引退試合でチームメートと握手を交わす西浦=右端(オセアンバファローズスタジアム舞洲)

9月に行われた2軍での引退試合でチームメートと握手を交わす西浦=右端(オセアンバファローズスタジアム舞洲)

 「(厳しいと)言われて、すぐに決めました。いつか言われるかも…とは覚悟していたし、往生際が悪いのは嫌なので。すぱっと決めたい。これはもう、性格ですね」

 物心ついた時にはバットを振っていた。保育園の頃から、夢はプロ野球選手だった。常に野球とともにあった人生を、「いつけがしてプレーできなくなるか分からない。だから勇気を持ってやる」と歩いてきた。

 その覚悟で野球を続けてきた西浦だからこその、即決だった。

 ◇ 

 長い入院生活で肌が透けるように白くなった以外は、甲子園を沸かせ、京セラドームを沸かせた姿のままだった。ただ立っているだけで絵になる。「プロ野球選手、西浦颯大」がそこにいた。

 春野球場のスタンドでたくさんの人が声を掛けてきて、その中の誰かが言った。「西浦君やったら、これから何をやっても成功すると思うで」

 その言葉への答えが振るっている。「自分でもそう思います。まだ何をやるかは分からないですが、やりたいことをやります」

 少し笑って、西浦は球場を後にした。命を懸けて駆け抜けた野球人生の終わりに、新たなステージの幕開けを見る。(井上真一)

 にしうら・はやと 中学時代、U―15日本代表に選出。明徳高では1年から主力。2年の夏の甲子園では3回戦で満塁本塁打を放ち、4強入りに貢献した。2018年にドラフト6位でオリックスへ。20年までの3年で128試合出場、3本塁打、22打点。20年シーズン終盤、国指定の難病「両側特発性大腿骨頭壊死症」を発症。21年は育成選手となり闘病生活を続けたが、病状が悪化しシーズン末での引退を決めた。178センチ。右投げ左打ち。熊本県出身。22歳。

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