2021.03.23 08:40
フルーツトマトの元祖「徳谷」 大災害の翌年に実り―そして某年某日(3)
さまざまな人や風景の「ある日」「そのとき」を巡るドラマや物語を紹介します。
日本のフルーツトマトの元祖「徳谷トマト」は、市場に出荷するときの生産者番号で売り買いされるから面白い。居酒屋メニューにも「徳谷の○番」と書いていたりする。
「7番」と言えば、神様とも呼ばれた中沢増夫さん(92)のトマトだ。コクと深みのある味で「日本一うまい」と言い切る人もいたほどだ。
同じ草分けメンバーの一人、故・栄田義夫さんは「52番」だった。1998年の高知豪雨でハウスが浸水し、苗も全滅。そののちに跡を継いだのが、長男の教良(のりよし)さん(64)。
さてこの高級ブランドトマト。いつ、どこから始まったのか。
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ところが翌年、最初の収穫を終え、手応えを得た矢先。土佐湾台風の記録的な豪雨、高潮で久万川の堤防が決壊。ハウスは海水の湖に。専門家に土壌の検査を依頼したところ、「もう栽培は無理」とまで言われ、守男さんは荒れ地に立ち尽くした。
しかし、ここからが「一徹のいっちゃん」。生前の取材には「『それ見たことか』と周囲に思われるのが悔しかった」と思い出を語っている。妻とハウスを組み直し、苗床を作り、「もうやけくそ」で、翌年の栽培準備に入った。
年が明けると覚悟した通り、大半は塩で枯れてしまう。しかし弱々しく残った枝には、わずかながら実が付いた。前年採れた大玉とは全く異なる姿形。ピンポン球のように小さく、果肉は引き締まり、そしてスイカのように甘かった。
◇
翌年から守男さんは収量を増やし、一宮徳谷の栽培仲間も徐々に集まった。
草分けの仲間たちは4、5軒で、続々とハウスを作り始めた。
塩分を嫌うトマトの根は水を吸えない。そうなると逆に、水気のない、甘みの凝縮したトマトができる。そうした自然の摂理を、守男さんたちは実地で悟った。
独特の塩分土壌は恵みであり、ときに格闘の相手となった。
農地ごと、畝ごと、一本一本ごとに、塩分濃度が違う。ある場所には水をまき、ある場所は塩分を生かす。
農閑期にはハウスの幕をはいで雨にあて、塩分の濃さを整えた。
◇
「いっちゃんのトマト。もう、うまいのなんの」。高知市卸売市場の荷受け会社の集荷人だった永野勝勇さん(76)は当時29歳。守男さんがトロ箱で入荷したトマトを食べ、胸を躍らせた。
「これは野菜じゃない。こんなトマトが世にあるかよと」
以来、永野さんは一宮徳谷の農家のもとを足しげく訪ね、生産や出荷を増やすように頼んだり、完熟させた実だけで売り出すことを提案したりした。
同じころ菜園場町の青果商、尾崎義隆さん(74)は、持ち込まれたトマトを市場で味見する。中沢さんが作ったトマトだった。
「もう甘みとコクと。口と喉の奥が、きゅーんとなった」
徳谷トマトは評判を集め、尾崎さんらは県内外にこう売り込んだ。「フルーツみたいなトマトがある」
◇
パイオニアの一人である守男さんの番号は「57番」。
病に伏せる最晩年までトマト作りに励み、77歳で他界した後のハウスには形見のような実りを残した。次男の浩雄さん(60)はそれらを収穫し、会社員を辞めて後を継ぎ、伝説の57番を守っている。
自宅の選果場におじゃますると、朝摘んだトマトを一つ一つ、丁寧に磨いていた。
ハウスには3年行っておらず、「もう懐かしいです」と笑う。
当地に嫁入りしたのは19歳。昔のハウスは木組みで、わらを編んだ菰(こも)で屋根を覆い、寒い夜はろうそくの火で中を暖めた。
大災害の翌年にできた実のことも、うっすらと記憶にある。
「小玉でとても甘く、リンゴの空き箱に詰めて農協に出荷した。それがおいしいと評判になって」
「主人はトマトが好きでしたねぇ。病床でも、病気が治ったらまた作ると言いまして。人を雇うてでも、わしゃ作ると。50年とは短いですねぇ。ほんの少し前のことのよう」
馨さんの話は、時の流れがゆるゆると静かに戻ってくるようで、いつまでも聞いていたい気分だ。
◇
夫妻が被災の後、最初の甘い実を採ったのは今からちょうど50年前、1971年3月。日本のトマトの長い歴史は、このときを記憶せねばならない。
布師田の平野では現在、10軒ほどの農家が個々に伝統の番号を持ち、場所場所に異なる土壌、自然と格闘しながら、塩の大地の恵みを伝えている。(石井研)