2016.03.08 14:52

全国最大の津波想定の高知県黒潮町 諦めない「思想」紡ぐ

行政の理念が地元に浸透 

 全国最大「34・4メートル」―。南海トラフ巨大地震に関する「想定」を、国を挙げて見直す契機となった東日本大震災から5年がたとうとしている。34メートルという想像を絶する津波想定高を突き付けられた高知県幡多郡黒潮町にとっても、この年月は特別な時間となった。

 黒潮町ならではの防災対策が多数編み出された。行政は、津波や地震と「闘う」のではなく「うまく付き合う」を理念として掲げた。住民は他地区の人をも助ける防災計画を立てた。子どもたちは防災教育を通じて、地域の先人から「生きる知恵」を学んだ。

 「3・11」以降、黒潮町の人々は、それぞれ守るべき「命」と向き合った。自然に恵まれているが故に、災害の脅威にさらされる宿命を負った黒潮町で、防災の営みにスポットを当てた。

全体で意識共有 避難放棄者出さない 

 「34・4メートル」が公表された翌日の2012年4月1日は、日曜日だった。住民から問い合わせが殺到するだろうと、黒潮町職員は役場の電話の前で待機した。

 丸一日待ち構えて、電話がかかってきたのは5件ほどだった。

 黒潮町情報防災課の松本敏郎課長(59)は、「よく考えれば、住民は諦めたんですね」と当時を振り返る。

 大西勝也町長(45)も住民から、「町長、気にするな。おまえの責任じゃない。おまえが何ぼやっても無理だから」と声を掛けられたという。

 黒潮町全体が諦めの雰囲気に包まれた。

 数日後、松本課長は開き直った気持ちで町長室に入った。

 「町長、何から始めましょう」

 大西町長は「思想をつくれ」という言葉で即答した。

 思想。なぜこの言葉だったのだろうか。

 大西町長は語る。「34・4の数字だけで、いきなり論理的に今後の方向性を打ち出すことは到底無理。これから国や高知県から細かな情報が出てくるだろう、と。その時、ぶれない思想を持っておくことが大切になる。『思想』という言葉が一番しっくりきた」

 約30年前に砂浜美術館の立ち上げに関わった松本課長にも、この言葉がしっくりきた。

 「考え方から入ることを砂浜美術館の構想から学んでいたから」

 こんなやりとりから、まず「避難放棄者を出さない」という黒潮町の防災に関する理念ができた。それはやがて、黒潮町全体で共有する標語となった。

 〈あきらめない。揺れたら逃げる。より早く、より安全なところへ〉

暮らしのすぐそばにある海。恵みと災害の脅威、両面を持つ自然と向き合い、高知県幡多郡黒潮町ではさまざまな取り組みが進む
暮らしのすぐそばにある海。恵みと災害の脅威、両面を持つ自然と向き合い、高知県幡多郡黒潮町ではさまざまな取り組みが進む
全職員が防災担当 避難道整備は異例の早さ 

 黒潮町職員は、約200人全員が防災担当である。職員が地域に張り付く「地域担当制」が2012年6月から始まった。

 2012年の6~8月の約3カ月間、156カ所でワークショップが開かれた。これに住民4634人が参加。担当の黒潮町職員も地域に入った。

ワークショップを開き、地区防災計画を立てる芝地区の住民(2015年6月)
ワークショップを開き、地区防災計画を立てる芝地区の住民(2015年6月)
 ワークショップから意見を吸い上げ、黒潮町の防災が動いていく。住民の要望を受け、避難道240路線、広場168カ所、避難タワー5基を整備することを黒潮町は決めた。2012年9月議会の補正予算にも反映させた。

 「異例の早さだった」。松本課長はこう評価し、「南海地震対策係だけだと、各地区の避難道を調べるだけで何年もかかる」と説明する。

 大西町長も地域担当制の効果について、こう話す。「職員200人が総出で出て行きよることで、役場組織の評価が上がった。町民から、このことに関しては『役場も大変やね』っていう意識を持ってくれた」

 この時計画した避難タワー5基は、2014年3月までに完成。今後新たに、佐賀地域に避難タワー1基を建設する。避難道や避難広場は、2016年度中に95%整備される予定だ。

避難訓練で園児と入野地区の高台に逃げる大方中学や大方高校の生徒ら(2015年5月)
避難訓練で園児と入野地区の高台に逃げる大方中学や大方高校の生徒ら(2015年5月)
【本来の姿】防災を「幸せ計画」に 

 「3・11」から5年、黒潮町の対策はどれほど成果を挙げたのか。

 大西町長は答える。

 「ステップアップは間違いなくしてる。理論的に避難空間はできた。それに伴って意識も変わってきた」

 でも、と続ける。

 「どっかに防災対策は行政がやるもんやって意識が(ある)。ジレンマを抱えながらやってる」

 どんなに立派な避難タワーができても、逃げる意識がなければ意味がない。

毎月開かれる海辺の日曜市。屋外でコーヒーを飲んだり、買い物を楽しんだりする家族連れら(高知県幡多郡黒潮町入野)
毎月開かれる海辺の日曜市。屋外でコーヒーを飲んだり、買い物を楽しんだりする家族連れら(高知県幡多郡黒潮町入野)
 町民の防災意識について、大西町長の手応えはこうだ。「(想定が出た)当時は逃げないって意思表示した人がいたのは事実。今は、さすがに周りが『あんた何言うがな』って」。松本課長も「ある法事に行った時、町民が『次の地震の時は逃げないかんって、徹底したね』と何げない会話でしゃべっていた。かなり効いたかな」と話す。

 2人は、2014年9月の高知県全体の避難訓練を例に挙げる。この日、町民4073人が参加した。黒潮町人口の31・6%だった。

 大西町長は「70%参加だったら百点満点だと思っている。防災訓練が注目される町になりたい」と話す。松本課長は「50%に上げることが直近の課題」としている。

 大西町長は言う。

団地内の車の誘導方法について話す西村尚久区長=左=と、前区長の矢野了さん(高知県幡多郡黒潮町下田の口の緑野団地内)
団地内の車の誘導方法について話す西村尚久区長=左=と、前区長の矢野了さん(高知県幡多郡黒潮町下田の口の緑野団地内)
 「黒潮町に住んでいればカツオを食べるみたいな話で、防災に関しても、無理にやっとらん。やけん、地区防災計画から進化して、地域の『幸せ計画』になればいい。みんなが楽しく、がやがや話すだけで、黒潮町本来の姿に戻る」

 一時は暗い雰囲気に包まれた黒潮町。今やっと夕暮れ時に町民が立ち話をするような、日常の風景が戻ってきた、と大西町長は感じている。

 「(想定が出た)当初から防災で完結するつもりじゃなかった。あの想定で、かなり痛めつけられたわけよね。これを機会に、想定があったからいい町になったねって。山側の集落は海に近い町民を気遣う。それにお互いが感謝する、と。そういう信頼関係ができれば、想定と向き合ったかいがあった」

防災教育の一環で、群馬大学の准教授による授業を聞く田ノ口小学校の児童たち(高知県幡多郡黒潮町下田の口)
防災教育の一環で、群馬大学の准教授による授業を聞く田ノ口小学校の児童たち(高知県幡多郡黒潮町下田の口)
 黒潮町が貫いた姿勢を表す一文が残っている。2012年5月にまとめた「南海トラフ地震・津波防災計画の基本的な考え方」。内閣府が出した想定に対して、こう結んでいる。
 〈現在における最高の科学的知見をもって生みだし、勇気を持って公表されたものとして高く評価する〉

戸別カルテ100%回収 全世帯の避難法把握 
 「最後の一人は入野の漁師さんでね。職員が朝早くに行って取ってきたがですよ」

 松本課長が話すのは「戸別避難カルテ」のことだ。

 戸別避難カルテとは、世帯ごとに援助の必要性や希望の避難手段、自宅の耐震状況など、避難や救助に関する17項目を記載するもの。黒潮町は2013年3月にカルテ作りに着手した。町内3791世帯すべてに依頼し、2014年1月に回収率100%を達成した。

 黒潮町は全住民の避難方法を把握したことになる。この情報を基に、黒潮町全体の避難計画が具体的に決まっていく。

 大西町長はこう見る。「カルテ(作り)で黒潮町の雰囲気がガラッと変わった。町が避難場所を整備するのは必須。目に見える形で進まないと、町民はスタートラインに立っていただけないと思った。黒潮町が進めるハード面の対策と(町民の意識による)ソフト面が、カルテで合致した」

 住民主体の「地区防災計画」は現在、黒潮町内61地区中39地区で話し合いが進んでいる。

「海辺の日曜市」の役割に注目 顔見える集いが被災後の力に

 黒潮町には、日常の集いの場にも防災の切り口がある。

 毎月第2日曜日、黒潮町入野の土佐西南大規模公園で開かれている「海辺の日曜市」。町内外の約20店舗が、コーヒーやドーナツ、衣料品、雑貨などを販売している。

 主催団体代表の畦地和也さん(57)=黒潮町職員=は「顔と顔が見える関係で、自分が作ったものを売ることがコンセプトです。それは、災害に強いコミュニティーづくりにつながる」と話す。

 「海辺の日曜市」は2009年11月、畦地さんが個人的に仲間を誘って始めた。米ルイジアナ州ニューオーリンズで開かれている「ファーマーズマーケット」を手本にした。

 このマーケットは1990年代後半に始まった。2005年には、大型ハリケーン「カトリーナ」の被害に襲われながら、マーケットの「小さな経済圏」が地域復興の足掛かりとなったという。

 興味を持った畦地さんは2009年、現地へ足を運んだ。マーケットを運営するNPOの事務局長からこんなことを学んだ。

 「大きな物流に乗るチェーン店は、いざというときに回復力が弱い。ファーマーズマーケットでは、みんなが食料を売り買いしながら、お互いの安否を気遣っていたそうです。小さいマーケットは、コミュニティーを再生させる。災害時に有効な場となる」

 黒潮町に帰り、コンセプトを共有する仲間を募った。今では毎月、家族連れらや生産者が日曜日に集まる。それが、恒例の風景となった。

 出店するガラス工房「kiroroan」=黒潮町入野=代表の植木栄造さん(50)は、「いろんなお客さんが集まって話しながら販売できる」と話す。

 畦地さんは東日本大震災時の話からも「小さな経済圏」の大切さに気付いたという。

 「被災した岩手 県釜石市では、近所の小さな商店から営業が始まった。市場機能がストップしても、コミュニティーを持っている所は、お互いの助け合いで、すぐに店を立ち上げることができる」

 海辺の日曜市も、同じ機能を果たすかもしれない。日ごろは防災を意識しなくとも、災害時に強さを発揮するコミュニティーの根はしっかりと深まっている。

【緑野地区防災計画】高台に車避難誘導 助ける側も町一体で 

 避難してきた人を、地区住民が助ける―。黒潮町下田の口の高台に位置する「緑野地区」は、地区防災計画に、他地区の住民が車で避難してきた場合の誘導方法を盛り込んでいる。

 団地になっている緑野地区は、集会所の海抜が13メートル、一番高い所は約30メートル。101世帯273人が住んでいる。団地を下りれば、国道56号が通り、近くに田ノ口小学校がある。

 車避難の受け入れについて考え始めたのは「3・11」がきっかけだった。2011年3月11日午後8時ごろ、前区長の矢野了さん(68)宅に、黒潮町内の消防署から電話がかかってきた。

 「緑野地区の集会所を開けてもらえませんか」

 海に近い下田の口地区の住民を、緑野地区に移動させたい、という内容だった。矢野さんは了承し、約30人が緑野地区の集会所に移った。

 約20台の車も一緒に団地に集まった。矢野さんはその光景を見て「緑野地区は国道が近い。いざ地震が来たとき、地区外の人の車を拒むことはできない」と感じたという。

 矢野さんの思いを、2013年から区長を務める西村尚久さん(63)が引き継いだ。2014年6月、車の誘導方法を考える訓練を住民たちで初めて行った。車約40台を用意し、移動ルートや駐車スペースを、実際に車を動かしながら考えた。

 このとき、車100~200台が団地内に置ける▽道路に案内役の地元住民を配置する▽車の鍵を付けたまま駐車してもらう―などの事項を確認した。駐車スペースを確保するため、地区の一斉清掃時に空き地の草刈りをするようにも決めた。

 車避難は、渋滞による逃げ遅れなどの危険から、一般的には“タブー”とされる。黒潮町も「避難は徒歩が原則」としながら、車避難について「検討地区」と「不適切地区」に分け、現実に備えた対策を考えている。

 その中で、緑野地区の住民が自主的に「車を誘導するための」計画を模索している。黒潮町側は「町として助かる。先進的な地区防災計画の一つ」とする。

 群馬大学広域首都圏防災研究センター長の片田敏孝教授も「自分たちの地域の安全だけじゃなく、助ける側の姿勢がある。黒潮町が一体感をもって、津波に向かい合おうとしている」と評価する。

 緑野地区の自主防災組織には、救護▽消火▽炊き出し―など、細かく役割を分けた八つの活動班がある。車避難の誘導はそのうちの一つ「誘導班」の任務に当たる。

 活動班ができたのは2014年春。住民同士の話し合いやきめ細やかな訓練を重ねる中で、西村さんは感じている。

 「地震はいつ来るか分からんからこそ、住民全員が何をしないといけないか、普段から訓練をして知っちょかないかんのです」

【学校現場】自然の怖さと恵み伝え 

 2011年3月11日。黒潮町伊田の伊田小学校では、児童と住民約20人が3階の音楽室に身を寄せていた。

 当時1年生だった相牟田真珠(ましゅ)さん(12)は、「大きな津波が来る」と聞いて、怖くて窓の近くでずっと泣いていた。この時、津波がどういったものかイメージできなかったという。

 それから1年後、「34・4メートル」の想定が出る。当初は「余裕で逃げれるろ」と思っていたが、高さや津波の知識を学ぶうち、相牟田さんはこの数字が頭から離れなくなった。

 伊田小学校や、伊田小学校の休校に伴って現在通う上川口小学校(黒潮町上川口)でも、避難訓練や、津波から逃げる体力を養うマラソンが繰り返される。

 黒潮町は防災教育にも力を入れ、2015年2月には群馬大学などと独自のプログラムを完成させた。町内の小中学校に、年間10時間以上の防災教育と6回以上の避難訓練を義務付け。9年間で、防災意識の基礎をつくる。

 ただ、伊田小学校から上川口小学校へ移った前田浩文校長は、訓練で児童に「危ないぞ」「逃げれ」とせかしていたことに、ふと疑問が湧く。訓練で登った高台から、朝日に照らされた海が見えた時だ。

 「今、自分はこの子らが生きる地域を否定しているんじゃないか。自然は時に牙をむくけど、普段は自然の恵みの中でこの子たちは暮らしている」

 その後の避難訓練では、高台から海に向かって「おーい」と児童と一緒に叫ぶことにした。地域への感謝の気持ちが育ってほしい。そう思いを込める。

 この輪の中に相牟田さんもいる。一時は「逃げても無駄」と思ったが、学習を進めるうちに「自分も他の人もみんな助かってほしい」という思いが強くなった。今は防災新聞作りや避難訓練を通じて、他者の助け方を模索している。

 黒潮町下田の口の田ノ口小学校は、防災教育推進の指定校として、黒潮町の防災会議などで活動の成果を発表してきた。

 2015年末、6年生の津田渓斗君(12)と徳広伊吹君(12)は、下田の口地区の区長で、黒潮町自主防災会会長の森岡健也さん(69)の自宅を訪ねた。 

 地区に「コエト」という小字(こあざ)があり、江戸時代に津波が海抜約20メートルの山を越えたという言い伝えを聞き、確かめに来たのだった。

 森岡さんは話す。「うれしかった。地域の言い伝えを次世代につなげるのが私たちの役目ですから」

 津田君と徳広君は2016年1月、田ノ口小学校で開かれた教職員らによる防災研究会で6年生の仲間と一緒にこう発表した。

 「東日本大震災は千年に一度の災害でした。僕らが住む黒潮町は昔から津波を乗り越えてきた地域です。地域の歴史からも、もう一度津波について考えましょう」

【黒潮町内の「災害地名」】 打越、コエト… 「逃げろ」―先人からのメッセージか

 黒潮町内には、津波の痕跡を記録する小字や川の名前が残っている。「3・11」よりも随分前、先人たちは「津波から逃げろ」のメッセージを地名に込めたのかもしれない。教育現場や地域でも見直されている「災害地名」を紹介する。

 ▼打越(うちこし、田野浦)
 =津波がこの地域を越えたことに由来する。

 ▼コエト(下田の口)
 =海抜約20メートルの山を呼ぶ。1707年の宝永の地震で津波が越えたと言い伝えられている。

 ▼折橋(おりばし、入野)
 =津波がこの地点で折り合ったことから付いたという。黒潮町や京都大学などが手掛けた南海トラフ地震の津波シミュレーションでも、東西からの波がこの地点でぶつかる。

 ▼吹上川(ふきあげがわ、浮鞭)
 =加持川と湊川の合流地点に位置する。地震の時に川が吹き上げたとされる。

 ▼呂木山(ろぎやま、口湊川)
 =津波によって、船の櫓(ろ)がこの山まで運ばれたと言い伝えられている。

 ▼バンドウガラ(御坊畑)
 =「バンドウ」という海の魚がこの山まで流された。津波の威力を物語る。

 ▼他にも、佐賀地域の会所地区には「ノダ坂」と呼ばれる坂がある。「ノータ(波の先)」が越したことから名付けられたと、「佐賀町農民史」に記されている。



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