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2021.07.27 08:35

そして某年某日(7)1953年10月 始まりは京大研究室の紙漉き、不織布のパイオニア 故・広瀬晋二さん 土佐市 

当時20代後半。高知商業学校出身で化学は素人だったが、勉強量の豊富さと理解の鋭さは専門家を驚かせた(京都大学・岡村誠三研究室)
当時20代後半。高知商業学校出身で化学は素人だったが、勉強量の豊富さと理解の鋭さは専門家を驚かせた(京都大学・岡村誠三研究室)

原点「人生動け」
 まずはモノクロ写真から。手漉(す)き和紙の道具を前に、ここで何をしているのでしょう?

 白衣姿に丸眼鏡、笑顔の青年は、日本の「不織布」製造のパイオニア。土佐市の不織布メーカー「広瀬製紙」の創業者、故・広瀬晋二さん。

 撮影は昭和20年代末。国内で初めて、合成繊維を素材とした「不織布」作りにチャレンジしているところです。

 不織布とは「織らない布」。合成繊維などを水や熱、機械、化学作用によって接着し、布状に加工する。目が細かく、軽くて丈夫。

 いまや不織布を使った製品はあらゆるものに及ぶ。電池のセパレーター、フィルター、手ふき、シーツ、おむつ、防護服。そしてこのコロナ禍において、人類の必需品となったマスク―。

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 日本不織布協会が作成した歴史年表によると、不織布は欧米の発祥で、国内において研究が始まるのは1952年。土佐和紙作りの流れをくむ高知県の工場は、この時代から、発祥地の一つとして先頭を走った。

 製造方法は大別して2種類あり、一つはカード機や空気流などで繊維を集めて作る「乾式」。いずれも外国製の設備を導入した民間企業が手がけたが、高知市の金星製紙は1956年、国内で初めて、国産の自社設備による「乾式不織布」の製造を始めている。

 製造法にはもう一つ、水を使って繊維を絡ませる「湿式」がある。

 すでに合成繊維が開発され、服やストッキングは作られていたから、合成繊維を水でかくはんして固め、紙を作れるのではないかと、当時京都大学の機能紙研究者、故・稲垣寛さんらが考えた。

 当然目指すのは、均一できれいな紙布(しふ)。しかし繊維の接着剤はできたものの、思うように作れない。困っていた稲垣さんの前に、広瀬青年が現れる。

 当時28歳。仁淀川そばで妻や職人と土佐和紙を漉いていた。あるとき稲垣さんが高知市の紙業試験場の招きで講演をすると、広瀬さんは自作の手漉き和紙を携えて宿泊先を訪ね、「合成繊維で紙を作るお話に大変感銘を受けた。弟子にしてもらいたい」と切り出した。

 その後も板原伝・高岡町長の推薦状を受けて頼み込む青年の熱心さに打たれ、稲垣さんは大学と相談し、研究生としての受け入れを決める。

 広瀬さんは故郷に妻子を残して移住。京大・岡村誠三研究室に入ったのは1953年10月。

 このとき、土佐和紙作りの漉き舟や簀桁(すけた)など道具一式を持参した。ほどなく天然のトロロアオイをのりに使って、合成繊維のビニロンを漉き、端正な不織布シートを作り上げた。

 つまり国内の黎明(れいめい)となる不織布は、最先端機器が並ぶ京大研究室の一角で、和紙の手漉きの技によって作られた。その後、さまざまな化学溶剤を使った試作や実験、データ収集を重ね、稲垣さんと広瀬さんは、幾編の論文を書き上げて発表した。

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 2年半を過ごして研究を修了した広瀬さんは、31歳で帰郷。伝来の田畑を担保に借金し、不織布の機械漉きを行う自社工場を建てる。

 テスト実験には、同じ仁淀川流域の製紙技術者、高岡丑太郎が生み出した「懸垂式短網抄紙機(たんもうしょうしき)」を活用した。紙漉きの技のように振動するこの最新機械で、不織布作りの工程の原型が描かれた。

 抄紙機を開発し、改良を重ねた。合成繊維を原料に、水による繊維の分散→調整→網による紙漉き→圧搾・乾燥へと、手漉きの技術工程とほぼ同じ道をたどらせる。

 無二の相棒で、機械造りの名人だった故・小松茂彦さんとともに、生産ラインの傍らに泊まり込み、何度も何度も改良。巨大な乾燥機を研磨していて手をはさまれ、爪をはがした。

 念願の1号機は1958年ごろに座り、障子紙やティッシュペーパーのほか、機能紙、特殊紙と称した不織布の製造量を徐々に増やしていった。合成繊維を手で漉けることは京大で分かっていたが、機械化・工業化をしたのはこれが初めてで、広瀬さんの工場はその後しばらく、各繊維会社の実験工場となった。

 のちに日本の機能紙研究の権威となる稲垣さんは、業界紙記者のインタビューに、広瀬さんの工場が果たした役割の大きさを語っている。

 ―「この実験工場があったからこそ、ポリエステルやポリオレフィンを使った紙も全部工業化できた。その結果、せっかく作った合成繊維の用途開発で困っていた有力な繊維メーカーが、次々と新しい繊維を持ち込んだ。これが化繊紙、合成紙、あるいは機能紙が世界へ広がる嚆矢(こうし)となったのです」

回転する円網で繊維をこしとり、上部の板(毛布)に転写する。本社工場では改良を重ねた1号機、2号機が軽快な水音をたてる(土佐市高岡町丙の広瀬製紙=山下正晃撮影)
回転する円網で繊維をこしとり、上部の板(毛布)に転写する。本社工場では改良を重ねた1号機、2号機が軽快な水音をたてる(土佐市高岡町丙の広瀬製紙=山下正晃撮影)

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 この7月。広瀬さんが暮らした土佐市の自宅を訪ねた。妻の寿賀さん(93)が、今も残るゆかりの品を見せてくれた。

 まずは若いころ共に励んだ手漉きの道具だ。蔵には今も木製の簀(す)や桁(けた)がたくさん残る。

 「主人は思いやりのある人でした。真冬に仁淀川でコウゾを洗っていると、寒くて寒くて。貧しい時代だから長靴に穴が開いてましてね。主人は大きな穴の方をはいて、私には小さな穴の長靴をはかせてくれました」

広瀬晋二さんの京大時代の研究記録を見せる寿賀さん(土佐市高岡町丙の自宅)
広瀬晋二さんの京大時代の研究記録を見せる寿賀さん(土佐市高岡町丙の自宅)

 化学式や実験データがびっしりと書き込まれた大学時代の研究ノート、若いころから残した日記も探してきてくれた。

 27歳の日記の表紙には、強い字で「人生動け」とあった。

 「もう本当にあちこち動く人でした。賢くて活発で。どこに出しても心配のない人。今は不織布の時代? そうですねえ。こんなすごいことになるとは。主人は思っていたでしょうかねえ」

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 広瀬さんの工場は成長を遂げ、高性能マスクの中核となる「捕集膜」の製造などでひた走る。広瀬さんは2004年に79歳で亡くなった。生前はよく不織布を握りしめ、小さな玉のようにして手の平に置いた。「これが僕の宝物」。そう言って玉をほどき、土佐和紙の典具帖紙(てんぐじょうし)のような、極薄の大きな1枚をひらひらと広げて見せたという。(石井研)

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