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2021.07.03 08:35

繁藤を忘れない 山崩れ犠牲者五十回忌(上)何も考えず逃げた

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繁藤災害の第一報を伝える1972年7月5日付の本紙夕刊。山津波が起きた現場写真が惨状を物語る

 香美市土佐山田町繁藤。陽気と静寂に包まれた無人のJR繁藤駅ホームに、ゆっくりと列車が入ってくる。乗り降りする人はわずか。のどかな光景に、49年前の惨事を物語るものはない。

 〈マンガン礦(こう)や木材に 天坪(あまつぼ)村の名もたかく 蕨(わらび)狩りゆく角茂谷 穴内川の清らかに〉

 駅構内には、鉄道唱歌「高知線の歌」の歌詞が掲示されている。繁藤は1955(昭和30)年まで、旧天坪村(後の長岡郡大豊町)の一部だった。「あま」は雨を意味し、この辺りは昔から雨がよく降る場所だったと想像される。

 72(昭和47)年7月5日。早朝から続く集中豪雨で、繁藤駅の北側に位置する追廻山(おいまわしやま)が崩落した。遭難者と、救出作業に当たった消防団員や住民ら計60人が犠牲に。本県の災害史に残る大惨事となった。

   ■  ■ 
 同日午前5時ごろ。当時、私設消防団長だった西岡統一さん(81)は、住民宅に流れ込んだ土砂を取り除くために出動した。バケツをひっくり返したような雨で、道は川のようだった。

 午前7時前、倒木を切るチェーンソーを取りに国道32号に出て、身が震える一報を聞いた。山の斜面が幅十数メートルにわたって崩れ、住民の避難作業を手伝っていた分団員1人がのまれた―。駅前には救助のため百数十人もの人々が集まった。

 降りやまぬ雨。再崩落の恐れ。捜索は難航した。午前10時50分、分団員の着衣が見つかった。活動は一段落。西岡さんは国道沿いのガードレールにもたれ、高知新聞香長支局長の田村耕一記者=当時(28)=から取材を受けていた。

 同55分、その時がきた。「水が止まった!」。誰かが叫ぶのが聞こえたが、「どういうことなのか分からんかった。まさか、あんなことが起きるとは…」。斜面からあふれ出していた濁水が止まったのだ。

 「雷を7、8個落としたような」ごう音が響いた。山が揺れ、割れた。幅140~170メートル、10万立方メートルの土砂がどっと流れ込み、人々を一瞬にしてのみ込んだ。「よう忘れん」。その瞬間は、西岡さんの脳裏に今も焼き付いている。

 頭は真っ白。必死で駅の方向へ走った。何も考えなかった。気づくとホームのそばにいた。後ろには枕木に挟まれ動けなくなった駐在がいた。ついさっきまで一緒にいた田村記者の姿は、どこにも見えなかった。

   ■  ■ 
 繁藤災害犠牲者の慰霊祭は5日、五十回忌を迎える。その歳月は、被災当事者や遺族の高齢化と記憶の風化を進めている。未曽有の惨劇の教訓をどう伝え生かすのか。あの日を振り返り、考える。(香長総局・小笠原舞香、横田宰成)

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