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2021.06.28 08:15

野田正彰氏「過ぎし日の映え」(62)ウィーン大学での講義

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抱き合って学位授与を喜ぶウィーン大学の卒業式

 グラナダ・アルハンブラの帰り、ドイツ・アルプスをしばらく歩いた後、いったん帰国してすぐオーストリアへ戻った。1992年9月からの冬学期、ウィーン大学へ赴任し「現代日本の社会病理」の講義と「文化変容」のゼミナールを開くことになっていた。前年春、私の著作に注目したゼップ・リーンハルト教授から思いがけず招聘(しょうへい)の手紙が届き、驚いたものだった。ウィーン大学の委員会を経て連絡された条件は、講義と演習それぞれ12回(集中講義可能)、120万円。旅費は40万円、と厚遇だった。京都の大学での週2回の講義も集中講義とし、日程調整した。

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 前年歩いたシベリア、レナ川の上空を飛び、モスクワを経てウィーンに降りた。ウィーン大学は旧市街、路面電車が環状に走る北西の一角を占める。南側には広い庭園をはさんで市庁舎、国会議事堂、国立劇場が囲んでいる。宿舎は大学の北東ジーフェリンガー通りに、四つ星ホテルが用意されていた。赤い市電には柔らかなオーストリア・ドイツ語の案内放送が流れ、それに乗れば古都のめぼしい所へどこにでも行くことができた。

 ウィーン大学は1365年に創立されたドイツ系で最古の大学。19世紀後半には医学、哲学、歴史学、民族学、法学、経済学などの分野で先駆的な学問を築き、それぞれがいわゆるウィーン学派と呼ばれるようになった。このうちの二つ、民族学と医学(精神医学)において、私はウィーン大学と接点を持ったことになる。

 民族学でもウィーン学派を形成した(W・シュミットらの文化圏説。日本の民族学を創った岡正雄、石田英一郎らも学んだ)大学には、現代の極東を研究する日本学・朝鮮学研究所がある。日本が経済大国になるにつれ、欧米の大学で日本学(ヤパノロジー)の研究が盛んになってきた。しかしその多くは今なお日本文学研究に偏っている。学生は今日の日本社会に関心があるのに、教授たちの多くは近世以前の日本文学研究や日本語研究を行っている。ところがウィーン大学はドイツ語圏で唯一、日本社会の研究を課題に発展してきた。

 どのような研究が行われているか、修士、博士論文を見てみよう。「日本におけるエイズ対策、官僚システムがそれをいかに遅らせたか」、「企業における精神衛生対策」、「日本の精神病院での長期入院者たち」、「日本の子どもたちの社会化プロセス」、「日本における独身の母」、「単身赴任」と並ぶ。いかに彼らが鋭い問題意識を持っているか、分かるだろう。ウィーン大学は学士号を出しておらず、卒業は修士か博士の論文提出による。私の講義をとった学生は6年、7年以上の学生であり、またヨーロッパ中の大学に開講の案内がされていたため、スウェーデンやスコットランドからも聴講学生が来ていた。彼らは日本へ旅行し、前記のような鋭いテーマを見付けてくるのである。

 秋の一日、焼き栗売りの声の流れるショッテントーアの駅を通って、回廊の並ぶ大学構内へ入っていく。講義が終わると、学生たちは拳でコツコツと机をたたき、聴講の喜びを伝えてくれる。彼らは講義の後、会話を楽しみにしていた。近くのカフェ「アインシュタイン」などで議論を繰り返した。若年化する青少年の暴力の比較、日本女性の精神の不安定について、日本人はなぜ風景に自分を入れて写真を撮り、常に自分を記録しようとするのか…。話題は尽きなかった。

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 教授の一員として、卒業式(学位授与式)にも参列した。イタリア・ルネサンス様式の大学本部の大ホールは、クリムト作の輝く裸婦が舞う天井画で覆われている。大ホールは正装した親族や友人でいっぱいだった。毎月開かれる授与式、この日は医学部の学位授与。二十数人の新しい医師が並ぶ。ここでも優秀なのは女性なのであろう、女性が半分以上だ。中東の男性も3人交じる。

卒業式に臨むウィーン大学医学部の学生たち

 儀仗(ぎじょう)を持った2人の付き人に守られた講壇には、医学部長、学長、研究科長らが並ぶ。私たち教授もバルコンに座った。黒い毛皮の礼服に褐色の胸当て、黒毛の帽子で身を整えた学部長は、ヒポクラテスの誓いを引用しながら医師の心構えについて快活に説く。学位書状はラテン語で読み上げられ、各人に手渡されていく。左のボックスから楽団が音楽を演奏し、新博士が順々に演壇に上(のぼ)って3人の師に挨拶(あいさつ)していく。再び学長の閉会の辞。伝統的でかつ明るく、快い授与式は40分ほどで終わった。

 終わると同時に、ホールに座っていた親族、友人が花束をもってどっと新博士を囲む。ひとりの父親は娘を抱きしめたまま、笑顔を涙でぬらしている。娘は向きを変え、次々と祝福を受けている。横に立った背の高い父親は、そのままの姿勢で泣き続けていた。落ちる涙は晴れた秋の空から降ってくる一時の雨のように、父親の顔を輝かせていた。

 この国で医師になることは開業するとか、親の病院を継ぐとかといった功利性を持っていない。父親はただ、娘が頑張り通して卒業に至ったことがうれしかったのだ。娘が貫いた10年の歳月を喜びかみしめる父親の感動は、そのまま私にも伝わってきて茫然(ぼうぜん)としていた。

 日本の卒業式となんと違うことか。商業主義に煽(あお)られたユニホームとしての晴れ着、マスで無感情の式典、今を感動するよりも記録するのに忙しい写真撮影。そして女子学生から愛嬌(あいきょう)のあった男子学生に贈られる花束、パロディーとしての社会人への出発式…。そんな毎年3月に繰り返される日本の大学の光景を想い浮かべながら、入学から卒業まで、教育が青年に伝えるものが根本的に違っていると思った。私たちは1966年、青年医師連合を結成、空虚な博士号制度を拒絶し、自主研修を提起していった。あの頃のことを想い比べ、こんなに嘘(うそ)のない卒業式もあるのかと驚いた。

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 終わって大講堂を出る。大学の北側、フォティーフ教会の前の広場は、ジークムント・フロイト公園と名付けられている。フロイトが1891年から1938年6月、ナチに追われてロンドンへ亡命するまで、住んだ家は近くのベルクガッセ19番にあった。ベルクガッセ(山通り)の名のとおり、丘を降りた街路、そこに面するありふれた建物の2階が彼のアパート兼診察室だった。ここに住んでいたユダヤ人は誰も帰ってくることはなかった。

 大学の講義のほか、私は11月22日、古い歴史を持つブリギッテナウ市民大学で、「精神分析と精神療法の文化的限界、日本における挫折」として講演を行った。満員の聴講者で質問も多く、学長も質問してきた。昼食になっても、質問は絶えることがなかった。K・ヤスパースの基本概念「挫折」を想起しながら、人は苦悩、死、闘いなどの限界状況・挫折から何を見出(みいだ)すか、文化による自我の相違について語った。カフェから大学講義まで、ここでは市民が考えること、考えたことを語り合うことを歓(よろこ)びとして生きている。


野田正彰(作家、高知市出身)

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