2021.06.19 08:20

美しき座標 平民社を巡る人々 第3部「とっちんの愛」(4)

帝国議会議事堂(1903年刊『日本之勝観』、国会図書館ウェブサイトより)
帝国議会議事堂(1903年刊『日本之勝観』、国会図書館ウェブサイトより)

長い演説はいたしません
 田中正造は1891(明治24)年12月に初めて国会で鉱毒問題を追及。以来、毎回のように政府に質問書を出して対応を迫った。

 その都度、具体的な被害の実態を調べて示し、翌年5月の質問では、渡良瀬川流域7郡28カ村に被害が及び、毒気が年を追って増していると指摘している。

 田畑1600町余りが不毛となり、堤防の草が枯れて洪水が起きやすくなったほか、魚が死滅して漁業者が激減。81(同14)年に2773人いた漁業者は88(同21)年に788人になり、「今はほとんど皆無の有様になった」と詳細に数字を挙げた。鉱毒の加害は飲料水にも波及し、住民の衛生を害する惨状は実に見るに忍びなく、多年にわたる行政の緩慢に原因がある--と正造は訴えている。

 年々深刻化する被害。しかし正造に対する答弁は、内閣が交代してものらりくらりするだけだった。このため正造は、鉱毒事件についての質問書と同時に「なぜ答弁しないのか」を問いただす質問書を次々出すようになった。

 95(同28)年3月の第9回議会には、鉱毒問題以外も含めて13件の質問書を出している。この時、正造は「質問書を読み上げてもらうと長くなりますし、私が(趣旨を)述べた方がよかろうと思います」と演台に立った。

 「田中君が述べると長くなる!」とやじが飛んだ。「遠慮なくやるべし」の声が一方で上がった。議場は「簡単にやるべし」と「長くやるべし」の声が乱れ飛んだ。

 議長に「なるだけ要点だけで」とくぎを刺され、正造は「昨日いささか疲れておりますから、今日は弱っておりまする。長くやれとおっしゃっても長くはやらずにいたしますから、どうかしばらくご静聴に願います」とあいさつして演説に臨んでいる。しつこい追及と長い演説に対し、冷ややかな視線が増えていることを、正造自身も感づいていたのだろう。演説の冒頭で折々、こんなふうに語るようになった。

 〈今日は演説をいたしますわけではございませぬ。ご心配が―長かろうというご心配があろうと思いますから、お断りいたします(場内から『十分にやりたまえ!』のやじ)〉(1897年3月の第10回議会)

 〈皆さん、なるべく要領だけを申し上げます。私は当年病気でありまして、議場の演壇に出ましたのは今日初めてで、今日も極長いことは申し上げることはできませぬ〉(15質問書を出した1901年3月の第15回議会)

 断った後も、正造の演説はやっぱり長かった。

 こうした時期、煙害や伐採で山が荒れたことで、渡良瀬川流域ではたびたび大洪水が起き、鉱毒被害を広げている。1897(同30)年3月。たまらなくなった被害民は2度にわたり、大挙して上京した。貧しいために皆徒歩だった。「押し出し」と呼ばれるこの行動は、1回目こそ農商務大臣と面会できたが、その後は警察などから妨害をされるようになった。

 3回目は98(同31)年9月。正造は日記にこう記している。

 〈この日雲竜寺に集まるものおよそ一万人という〉〈船を渡るとき、警官抜刀、野口春蔵氏ら大怒り絶叫す〉〈弁当三日分を用意せしもの多し。また米割麦を持つ者あり。可憐(かれん)な薄着の老人も見えたり〉

 村長や村会議員、陸軍憲兵、警官らが立ち会う中で、正造は群衆に踏みとどまるよう説得した。正造には当時の大隈重信首相への多少の期待もあったのだろう。〈一場の演説をなす。大勢は委員を挙げ帰国の途につく。被害民中泣き出すものあり。哭(こく)するものあり。予もまた忍ばずして共に泣く。巡査及び警視、憲兵警吏らもまた目に涙を見る〉

 正造は代表者たちが各大臣に会えるようにすると約束し、大半を帰宅させた。しかし、内務大臣の板垣退助は面会を拒絶した。〈大臣違約して会わず。秘書拒絶。総代号泣す。大臣らの臆病見苦し〉

 正造は、きっと胸が張り裂ける思いだっただろう。

 =引用の一部は現代口語にして意訳(学芸部・天野弘幹)

ページトップへ