2021.06.17 08:23
美しき座標 平民社を巡る人々 第3部「とっちんの愛」(2)
風来坊の長っ尻
ひげもじゃで愛嬌(あいきょう)のある丸顔。服装はいつも同じ、ぼた餅紋の黒木綿の羽織に、黒いはかま。後ろに束ねて結んだ髪は一見ちょんまげのようで、時代錯誤な感じがして〈どこか、ぢぢむさいところがあった〉。
田中正造の印象をそんなふうに、幸徳秋水の妻、千代子が手記に書き留めている(『風々雨々―幸徳秋水と周囲の人々』。以下同)。一種異様な風姿だったが、でっぷり太っていたので福々しく見えたという。
明治30年代、正造は東京・麻布宮本町の秋水の家を足しげく訪れるようになった。めったにいない、時代がかった見た目なので、出入りの商人らが「あの人は誰ですか」と千代子に聞いてくる。田中正造翁(おう)だと告げると、相手は決まったように目を丸くした。
〈翁の名に驚く相手の様子を見る度ごとに、笑い出したいほど愉快でならなかった。ともあれ、『田中正造って誰です?』と、聞き返す者などは一人もいなかった。それほど翁は名高かったのである〉
国会でやじを浴び、冷笑されながらも、足尾銅山の鉱毒に苦しむ人々のため、演台にしがみつくように政府を追及した、とっちん(栃木の鎮台)こと正造。身なりに頓着せず一張羅の羽織やはかまがほころぶので、千代子が時々頼まれて繕うこともあった。
ふらりと現れて、ひんぱんに通ってくるかと思えば、ぱたりと音沙汰が消える。しばらくすると、また三日にあげず訪ねてきだす。そんな風来坊のような人だった。
いつも、黒い毛繻子(けじゅす)(綿と毛の織物)の手提げ袋を持っていた。中には、折り畳んだ大きな地図や、鉱毒で青みがかった土、農作物の根っこなどが入っており、いったん足尾銅山の話になると、それらを取り出して順々に語った。何枚も何枚も、紙に地図を描いてみせながら、熱心に語り続けた。
秋水の周辺は話し好きな人たちが多かったが、正造はその中でも特に話し好きで、長っ尻(ちり)だった。
〈話をされる時ちょっと小首を傾けて、一言一言考えるようにして言われるくせがあった。そしていつもにこやかにほほえんでおられた。しかし話に熱中されだすと、愛嬌のある眼は徐々に鋭く輝きだし、もし翁の意見にちょっとでも反対しようものなら、私のような者に向かってさえ、文字通り口角泡を飛ばされるのであった〉
秋水は最初のうち、他の約束をほごにして根気よく長話につきあっていたが、〈しまいには翁の応対を私に任せて、所用を果たしに出掛けるようになった〉〈正直に言うと、平民社時代の秋水も、なんとなく翁を敬遠していたようである。秋水が一番困惑したのは、翁に時間の観念がないことだった〉。
鉱毒被害民への思いがあふれすぎて、正造の長話はしばしば千代子を置き去りに、独り言のようになった。
〈おかしかったのは、地図を描かれるときの突拍子もない翁の独語であった。どんなことを言われていたのか、今ではもうすっかり忘れてしまったが、秋水の書斎を独占して、小首を傾けじっと眺め入ったり、熱心に筆を運ばれたりしながら、相手のないのに独りでしゃべっておられるのを聞いて、私は女中と共に笑うまいと苦心したものである〉
食事を出すと、喜んで何でも食べた。そうして、栃木の田舎暮らしや農作物などについて語り、「今度行ったら、芋を持ってきましょう」と言って、次の来訪時、泥だらけのジャガイモを持って現れたりした。
外に人力車を待たせていても、正造は長話になった。彼に食事を出すとき、千代子は車夫にも食事を用意する。外に出てみると、正造が何時間たっても出てこないので、車夫は待ちくたびれて、いつも居眠りをしているのだった。
=引用は、一部を現代仮名遣いにして意訳(学芸部・天野弘幹)