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2007.08.20 08:00

『本城直季 おもちゃな高知』潮風そよぐ浦戸の夏

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高知市浦戸


 夏。浦戸の南浦地区に、堤防も観光道路もなかったころ。子どもたちはもっぱら、浜に延々と続く松林にいた。ひょろひょろした松なんかじゃなくて、大人が両手を回しても足りないくらい太い松が、ずらーっと並んでいた。子どもたちはゴザを敷き、潮風に当たりながら学校の宿題をやった。“まんまるはだか”かパンツ一つで、ばちゃばちゃ泳いだりもした。海は足がつかないほど深かったのに、みんななぜか泳げた。浜で拾った赤や白、緑色の五色石を、石屋さんに持って行って売ることもあった。「人が足らんから」と頼まれ、そのころ盛んだった地引き網漁を手伝ったりもしていた。

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 この夏、浦戸を歩いた。開けっ放しの民宿の玄関で、洗濯物をたたんでいる女性(72)がいた。生まれてからずっと、浦戸に住んでいるという。彼女も子どもだったころ、松林で夏を過ごしていた。昔のことを聞くと「子どものころゆうたら、戦争やったで」。
 
 彼女が10歳の時、浦戸にどっさり兵隊が来た。年のあまり離れていない、予科練の人たちもいっぱい来て、浦戸の家に寝泊まりした。彼女の家にも、20人くらいが「3畳に5人ばあでぎちぎちになって」泊まっていた。一緒に遊んだり、勉強を教えてもらった子もいたが、彼女はほとんど話したことがなかった。でも、予科練の人たちの歌う声がよく聞こえてきたのを覚えている。彼女が「ちょいちょいと聞いて覚えて、意味も分からんと歌いよった」歌。ほとんど忘れてしまったが、今でも少し口ずさめる。「咲いた花ならば 散るのは覚悟」とメロディーにのせ、歌った。「大人になってから、散るっていうのが死ぬっていう意味やって知った。あの時、どんな気持ちで歌いよったがやろうか」
 
 彼女の家に寝泊まりする少年兵を訪ねて、その母親が来たこともあった。「お母さんが『生きて戻ってきて』言うて、泣きよった。声も出さんと涙を流して、息子と抱き合いゆう姿を見た」。その意味は「小さいき、分からんかった」。でも、悲しさは彼女にも伝わってきた。
 
 アメリカ軍の飛行機が来るようになって、逃げる生活になった。家でも、学校でも、サイレンがなるたびに、みんなが防空壕(ごう)のある山へ走って逃げた。「何機も何機もアメリカの飛行機が飛んできて、上からババババ撃ってきた。そりゃ怖かった、怖かったね。『艦隊が来るきに』『艦砲射撃が来るきに』って言われて逃げた、逃げた。死ぬるかと思うたで、なんべんも。今思うてもぞっとする」
 
 「民宿という言葉がはやった」ころに始めた宿は、もう39年になる。当時のお客さんは、ほとんどがお遍路さん。観光客は少ししかいなかった。子どもを学校へ行かせるために、彼女は必死で働き、浦戸には大橋と花海道ができた。松林はなくなり、海は遊泳禁止になった。芋畑は住宅に変わり、車1台がようよう通れる道ができた。彼女は変わらず浦戸に住んでいる。(野村圭)

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