2024年 03月29日(金)

現在
6時間後

こんにちはゲスト様

高知龍馬マラソン2024写真販売
高知新聞PLUSの活用法

2021.03.23 08:40

フルーツトマトの元祖「徳谷」 大災害の翌年に実り―そして某年某日(3)

SHARE

高知市・フルーツトマトの元祖「徳谷」塩の大地に50年

 さまざまな人や風景の「ある日」「そのとき」を巡るドラマや物語を紹介します。

 日本のフルーツトマトの元祖「徳谷トマト」は、市場に出荷するときの生産者番号で売り買いされるから面白い。居酒屋メニューにも「徳谷の○番」と書いていたりする。

 「7番」と言えば、神様とも呼ばれた中沢増夫さん(92)のトマトだ。コクと深みのある味で「日本一うまい」と言い切る人もいたほどだ。

名人の中沢増夫さんは4年前に引退。「農業は厳しい世界やで」(一宮徳谷の自宅)

 昭和の草創期から奥さんと二人三脚。ナスの台木を使って格闘した。「わしに技量など、なんちゃあない。すべて土地の力」とは、悠々たるご本人の弁。4年前の台風でハウスが壊れ、惜しまれて引退したが、魅惑の味を人の心に残した。

 同じ草分けメンバーの一人、故・栄田義夫さんは「52番」だった。1998年の高知豪雨でハウスが浸水し、苗も全滅。そののちに跡を継いだのが、長男の教良(のりよし)さん(64)。

究極のトマト作りを続ける栄田教良さん(高知市布師田)

 教良さんのハウスでは、過酷な土壌にゆっくりと育つ低い茎、乏しい根と葉の先に、美しい赤子の拳のようなトマトが実る。小売値は1箱4キロで2万円超。東京の百貨店などで売られる伝統の52番は、いまや「日本一高価なトマト」だ。

 さてこの高級ブランドトマト。いつ、どこから始まったのか。

 ◇ 

徳谷トマトのハウスが点在する平野。「源右エ門」「喜平次」といった小字の地名が残る(高知市布師田)

 高知市布師田の平野。久万川、国分川、大谷川が縁を流れる海抜ゼロメートル地帯。430年前の長宗我部地検帳に「古塩田(しおた)」「新塩田」の地名が近隣に見える古来の干拓地に、トマト好きの「がんこ一徹者」が苗を植えだした。

「いっちゃん」こと故・山本守男さん(2005年9月撮影)

 「いっちゃん」こと故・山本守男さん。昭和40年ごろから地元の一宮徳谷地区でトマトを始めたが、収量を上げるために広い土地を求め、仲間と2人、JR一宮駅をはさんだ南向こうの現在地、布師田へ移った。

 ところが翌年、最初の収穫を終え、手応えを得た矢先。土佐湾台風の記録的な豪雨、高潮で久万川の堤防が決壊。ハウスは海水の湖に。専門家に土壌の検査を依頼したところ、「もう栽培は無理」とまで言われ、守男さんは荒れ地に立ち尽くした。

 しかし、ここからが「一徹のいっちゃん」。生前の取材には「『それ見たことか』と周囲に思われるのが悔しかった」と思い出を語っている。妻とハウスを組み直し、苗床を作り、「もうやけくそ」で、翌年の栽培準備に入った。

 年が明けると覚悟した通り、大半は塩で枯れてしまう。しかし弱々しく残った枝には、わずかながら実が付いた。前年採れた大玉とは全く異なる姿形。ピンポン球のように小さく、果肉は引き締まり、そしてスイカのように甘かった。

 ◇ 

 翌年から守男さんは収量を増やし、一宮徳谷の栽培仲間も徐々に集まった。

 草分けの仲間たちは4、5軒で、続々とハウスを作り始めた。

 塩分を嫌うトマトの根は水を吸えない。そうなると逆に、水気のない、甘みの凝縮したトマトができる。そうした自然の摂理を、守男さんたちは実地で悟った。

 独特の塩分土壌は恵みであり、ときに格闘の相手となった。

 農地ごと、畝ごと、一本一本ごとに、塩分濃度が違う。ある場所には水をまき、ある場所は塩分を生かす。

 農閑期にはハウスの幕をはいで雨にあて、塩分の濃さを整えた。

 ◇ 

 「いっちゃんのトマト。もう、うまいのなんの」。高知市卸売市場の荷受け会社の集荷人だった永野勝勇さん(76)は当時29歳。守男さんがトロ箱で入荷したトマトを食べ、胸を躍らせた。

 「これは野菜じゃない。こんなトマトが世にあるかよと」

 以来、永野さんは一宮徳谷の農家のもとを足しげく訪ね、生産や出荷を増やすように頼んだり、完熟させた実だけで売り出すことを提案したりした。

 同じころ菜園場町の青果商、尾崎義隆さん(74)は、持ち込まれたトマトを市場で味見する。中沢さんが作ったトマトだった。

 「もう甘みとコクと。口と喉の奥が、きゅーんとなった」

 徳谷トマトは評判を集め、尾崎さんらは県内外にこう売り込んだ。「フルーツみたいなトマトがある」

 ◇ 

 パイオニアの一人である守男さんの番号は「57番」。

 病に伏せる最晩年までトマト作りに励み、77歳で他界した後のハウスには形見のような実りを残した。次男の浩雄さん(60)はそれらを収穫し、会社員を辞めて後を継ぎ、伝説の57番を守っている。

 自宅の選果場におじゃますると、朝摘んだトマトを一つ一つ、丁寧に磨いていた。

「いっちゃん」の妻、山本馨さんが傍らで。浩雄さん=左=は父を継ぎ10年になる(高知市一宮徳谷=山下正晃撮影)

 守男さんの妻の馨さん(87)に、傍らに来て座ってもらった。

 ハウスには3年行っておらず、「もう懐かしいです」と笑う。

 当地に嫁入りしたのは19歳。昔のハウスは木組みで、わらを編んだ菰(こも)で屋根を覆い、寒い夜はろうそくの火で中を暖めた。

 大災害の翌年にできた実のことも、うっすらと記憶にある。

 「小玉でとても甘く、リンゴの空き箱に詰めて農協に出荷した。それがおいしいと評判になって」

 「主人はトマトが好きでしたねぇ。病床でも、病気が治ったらまた作ると言いまして。人を雇うてでも、わしゃ作ると。50年とは短いですねぇ。ほんの少し前のことのよう」

 馨さんの話は、時の流れがゆるゆると静かに戻ってくるようで、いつまでも聞いていたい気分だ。

 ◇ 

 夫妻が被災の後、最初の甘い実を採ったのは今からちょうど50年前、1971年3月。日本のトマトの長い歴史は、このときを記憶せねばならない。

 布師田の平野では現在、10軒ほどの農家が個々に伝統の番号を持ち、場所場所に異なる土壌、自然と格闘しながら、塩の大地の恵みを伝えている。(石井研)

高知のニュース 高知市 農業 そして某年某日

注目の記事

アクセスランキング

  • 24時間

  • 1週間

  • 1ヶ月