<球児の軌跡 2015年>590球の軌跡 藤川球児、語る 高知に感謝しかない 家族あっての野球
「火の玉ストレート」で日米通算245セーブを誇り、プロ野球を代表する救援投手の阪神タイガース・藤川球児投手は高知市出身。高知新聞社では藤川投手の中高生時代から、紙面でその成長を追ってきました。2020年引退する藤川投手に感謝を込めて、これまでの活躍を過去記事と写真で振り返ります。

(2015.09.24)
17日の公式戦を最後に四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグス(FD)を退団した藤川球児投手(35)が、このほど高知新聞のインタビューに答えた。6月20日のオープン戦初登板から3カ月という短い期間だったが、9試合で計590球を投げ、球場に詰め掛けたファンを魅了。故郷への感謝をはじめ、入団の理由、FDでプレーした印象、野球観、自身の胸の内などを話してもらった。(聞き手=運動部・谷川剛章)
■古里で過ごし充実
―高知で過ごす夏は、高知商業高校の頃以来。17年ぶりです。
そうね。シーズンオフには帰って来てましたけど。高知道の高速が2車線になってたり、観光客が来てくれるように県や市の努力があったり。子どもの時は気付かなかったけど、カツオとかユズとか、「高知といえば」というものが前面に押し出されてきてるって感じました。
―これまでの夏は、NPBや大リーグでプレーしていました。
高知へ行くと決めた時もそうなんやけど、先のことを見越してやろうと思ったことは本当にない。今ここで全力が尽くせるか。先が見えないからこそやらなきゃいけない時に、自分の本質って表れるもんやと思うんですね。その時の選択と、家族が1カ月だけアメリカから帰って来れる夏休みを生かせた。いわゆる仕事とプライベートが充実して選択肢としては一番魅力的でした。
―プライベートではどう過ごされていました?
よさこい祭りに行きましたよ、全然分からないようにして(笑)。アメリカまで行って、そういうものが少し恋しくなったというか。自分の子どもたちにも見せてあげたいなというのもあったし。まあ、高知の海、川、魚に触れ合ってくれたからすごく良かった。
―ご飯は?
けがをしちゃいけないので自炊はしませんでした。妻も賛成じゃないし。サウナの中とかで食べてましたね。普通に豚太郎にも行ったし(笑)。ちなみに散髪は大衆理容でした。
―え!? お店の人は驚いたでしょう。
他校の中学校の野球部の一つ上の先輩やった。後でここ(FD)のスポンサーさんって知りましたけど(笑)
―「泳ぎたい」とも言っていましたね。
越知町の仁淀川、きれいでした。鏡川も。心がすっとしました。われに返る瞬間というか。趣味の釣りも楽しめました。
―高知での3カ月間。自身を振り返ったり、見つめ直したりしましたか?
いいことも悪いことも、過去を振り返るのはすごく嫌いなんです。自分の人生が前に進まなくなると感じてしまう。けがをした時もまったく振り返りませんでした。常に前へ進まなきゃって思ってるので。まあ、振り返るのは、もっとおじいちゃんになってからでいいかな(笑)

■FDナイン プライド持って
―公式戦はほとんど先発して33回を防御率0・82、奪三振47でした。
結果や数字に対して「こうでした」というのはない。自分がどういうふうに取り組み、バッターと対戦したか、奪った三振や打たれたヒットの内容の方が重要です。先発なら当然ヒットは打たれるし、打たせて良いヒットもある。長いイニングを投げられたことや、スタミナがついたことは自信になった。
―先発にこだわったのは「阪神時代にうまくいかなかったから」と話していました。
そうですね。できないと思っていなかったんです。自分が自分でもっとできると思っていた野球像。若いときは、ピッチングフォームが安定してなかったりで故障が多かったけど、自分の中で「これだ」というものが見つかってからは、先発でも大丈夫と思ってはいたんですよ。
―中継ぎ、抑えで活躍されていた時も先発でやれる、と。
いけるんじゃないか、という手応えは出てきてました。だけど、セットアッパーで芽が出たんで。チーム事情もあったけど。まあ、アメリカへ行って大きなけがして。野球が上手になりたい、純粋に野球がしたいっていうふうになってきた。野球が好きで少年のような気持ちです。(FDで先発したのは)「野球人としての勉強であり、野球を極めることになる」とも考えました。
―1試合で120~130球を投げた。「まだまだ投げられる」と証明できたのでは。
いや、そういう評価が欲しくてやったつもりは全くなくて、自分の中でできるという自信があるからやるだけ。「(けがしたことで)投げられないんじゃないか」という疑問に対する答えを出せるのは、自分だけなんですよ。できないことにチャレンジしてるつもりはない。
―FDの一員としてプレーしましたが、選手に足りないと感じた部分はありましたか。
一人一人に「強くなろうという意思」は見えるけど、チームとしてまとまろうとしすぎなのかなという気がする。全員が個人事業主の集まりなので、協調性は要るけれど、そこにプライドを持たなきゃいけない。自分がやってるんだ、と。
―もっとそれが出てきてもいいと。
出さなきゃいけない。ゲームになった時、びしっとチームになるためには個々の強さがいる。選手からは何回かアドバイスを求められたけど、やんわり話しました。その中で、自分なりの答えを導き出してほしい。
―愛媛や香川の選手も、藤川投手との対戦を喜んでいました。
そこは野球人として重要に考えなきゃいけないところ。NPBでも独立リーグでも草野球でも、自分と対戦する時はそういう感情を抱いてくれる選手もいるでしょう。けれど、野球は自分にとって一番自信のあるものだし、そうした選手が持つ僕の印象や、評価を下げてはいけない。下げるんであれば辞めなきゃいけない。
―プレッシャーでしたか。
グラウンドに出るということはプレッシャーですよ。1円であろうが100億円もらおうが同じです。
■ファンは自分のモチベーション
―投げるたびに、たくさんのお客さんが球場に来ました。県外でもすごかった。
お客さんって敏感で、打者との対戦も含め、選手の能力やプレーに意思があるかないかが分かる。だから、その選手が持ってる技量や魅力というのは「色」がないといけない。自分のプレーを磨きながらも、お客さんを意識しなきゃいけない。僕はそれをタイガースの時から、責任感としてやっていた。どちらかといえば、お客さんと勝負するような感じですよね。思っている以上のことをしなきゃいけない、っていう。
―その気持ちは、どこで投げても変わらないですか?
変わらないですね。独立リーグも(入場料)千円をもらうわけですから。野球をしている以上、甲子園、大リーグ、高知どこでも、腕を振る時の気持ちは一緒です。お客さんが(選手のプレーを)見て、子どもたちに伝えて、野球選手を目指そうって思う子どもたちが増えるわけですから。
―高知商高時代の恩師正木陽先生、母文子さんも観戦していました。
グラウンドに出れば意識することはない。野球をしている時は監督、コーチ、チームメートが家族です。
―FDの試合の後、「自分のことを応援してくれる人がいれば、そこに対して全力で努力できることが野球選手としての誇り」と話していました。藤川投手にとって「お客さん」とは?
モチベーションです。お客さんは一人でもいい。人数は関係ない。プロである以上はそういう仕事なんで。グラウンド上で結果を出せなきゃ、いくらしゃべっても意味がないと思っているんです。
―試合後のサインに長い時間応じていました。在京、在阪の記者が「こんなに長くサインする球児は見たことない」と。
全部書こうと思って、書ける範囲で書きました。お客さんに来てもらっていることは、僕のモチベーションなので。
―特に、子どもにサインする時はうれしそうでした。
声を掛けるようになっていますね。自分も父親ですし。僕が覚えていることがあって、プロ選手と初めて握手したのが(現DeNA監督の)中畑清さん。本人に後で聞いたら覚えてなかったですけど(笑)。その時に一言「頑張れよ」って言われたんですが、みんなにもそうした記憶が残っていくと思うんです。
―藤川投手のピッチングを見て「あんなふうになりたい」と言う野球少年もたくさんいました。
そうなるのは、10年後か10年以内かな。でも、「あんなふうになりたい」と思ってくれるのは、僕でなくてもいいんです。FDや相手チームの選手でもいい。
―「球児さん、あの時高知で会いました」という子が、プロ選手になるかもしれませんね。
現状でもいますし、その時は「次は自分の番やで」と言います。その役割をみんなが担っていって、支えられながら次の世代につないでいってる。だから僕はOBの方々に感謝してます。野球選手とは「夢を与えられる選手」という職業ですから、それを守らなきゃいけない。
■新たな人生を送るために
―FD入団時は古巣の阪神も含め、さまざまな選択肢があったということでした。
新たな人生を送るために、生まれたのが高知やったからFDに入団した。夏休みをどうしようかと妻と話をしていて「ほな、高知行こうか」と。レンジャースのマイナー行きを断って、(住居のある)ロサンゼルスに帰って。高知の海、川に行って釣りもしたいなって。そこで高知に独立リーグがあって、やるべきこととやりたいことが合うかもしれない。野球をしないという選択肢もあったんですよ。ゼロからスタートして給料をもらわず、純粋に野球をやって、本当に好きかどうか、自分の人生にとって野球が必要かどうかが確認できる。そんな中で(高知FDでプレーできるという)タイミングが合った。だから「最高の決断」だったんです。
―最初の公式ブログで「肘の手術の後、キャッチボールの距離が伸びて僕の考え方も変わっていった」と書いていた。
それは楽しかったんやけど、(大リーグの)現場に戻った時はあんまり楽しくなかった。やりたいことじゃないかもしれないって。当時は、肘の回復と求められてるものの差が大きすぎた。もう一回けがしたら終わりやし、それだったら辞めてもいいかなって。200球投げて、ぶちっと切れて辞めてもいい場所は高知なのかな、と。ユニホームを着て野球やれる年数なんて分からないと思ってます。
―やはり家族を一番大切にしたい。
居なきゃ困るもんやから。家族がいなければ人生を送る楽しみはない。野球でいえば、グラウンドでファンの人とか守ってる野手とか、打者がいないのと同じようなもん。自分にとって家族がいないということは、グラウンドで誰も守ってないということです。
―藤川投手が描く今後を聞きたい。
確信にならないから思わないようにしてます。理想を描いたらだいたい失敗する。こうなりたくないなっていうのは強くある。例えば尻すぼみになるような選択肢が来るようなら、新しいものにチャレンジしたい。逃げるわけじゃなくて。まずはアメリカに帰って、家族と話して考えます。
―高知の野球人口が減っています。
気になっています。でも、一人一人の意思が強ければって思うし、数じゃないと思います。逆に言えば、子どもたちにとっては試合に出るチャンスが多いってことになりますよね。
―高知の方々へ、一言お願いします。
もう「感謝」しかないです。人の温かみにも触れることができましたし、「地元のため」とかではなく、本当に「お世話になってる」としか思っていません。高知が好きだし、僕の生まれた絶対的な場所です。返せるものがあるとすれば野球選手としての顔。この先、どうなるか分からないけれど、何かに導かれて頑張れたり、世の中に対して貢献できるようになりたい。そして、ここに来て時間を過ごして意味があったんだって、思えるようになれたら。