2020.08.15 08:39

【手記全文】太平洋戦争従軍、惨状克明に 故・竹村政治さん(宿毛市)

【記事】パプア従軍の手記公開 元通信兵が戦闘の惨状を克明に

(原文のまま掲載します。一部の用語のみ修正しています)

第2次世界大戦従軍紀行誌
はじめに

 第2次世界大戦とは昭和16年(1941年)12月8日より昭和20年(1945年)8月15日までを言う。この戦争になるまでには昭和6年支那事変発生以来、上海事変、満州事変といずれも現在の中国大陸において戦争の火種が連続的に起きていた。日本軍はその事変が起きるたびに、現地に進駐(侵略)するところとなり、ついに日本は昭和16年(1941年)12月8日、米英との国交断絶を行い、全世界を相手とする第2次世界大戦に突入していったのである。

 日本ではそれまでの戦争を大東亜戦争とも言い、それからを太平洋戦争とも言った。歓呼の声に送られて国のためという大義名分のもとに酷寒酷熱の広野密林の果てに生死を賭けての悪戦苦闘が日夜展開され、尽きることのない進軍退却の攻防が果てしなく続くのであった。戦友が倒れるたびに敵愾心をかき立てられる毎回の船上生活であったが、戦が長期化し、退却に退却の中で敵弾に倒れ、栄養失調と病気のために路傍に死んでいく戦友の哀れにも無残な姿を目の前に見るにつけつつ、生死を彷徨する戦場生活のひととき、ふと何のための戦争かという原点に疑問を抱き始めたのもその頃であった。

 敗戦という予期しなかったこの現実の前に、戦争とは何であるかという疑問はさらに清国的なものとなって唯茫洋とした日々があるのみであった。国敗れて山河は残ったが、思えば物量と科学技術に勝る米英との勝敗はすでに決定的なものであったと思わざるを得ない。

 それにつけても尊い人命を賭けての戦争は、どちらに勝敗があってもかけがえのない人命に勝る何ものも得ることはできなかった。敗戦という現実の中に身を横たえながら、ぶつけるところのない激しい憎しみと憤りをどうすることもできない日々であった。今個人的には闊達な自由が認められ、平和な毎日を過ごすことができているが、その陰には国のためとは言いながら、あたら青春をなげうって戦場に散華していった戦友があったことを決して忘れてはならないし、また、これに報いるものがなければならない。それがためには、戦死という痛ましい実相をこの目で見、この耳で聞き、この足で共に駆けめぐった生き残りの実践者でなければこの悲惨な戦争の実相を後世に伝え訴える者がないということを合掌の中に叫ばざるを得ない。戦争ほど残酷で悲惨なものはない。生命は至高至尊である。戦争は生命を絶つとも粗末にするものであった。回る戦場で散華に逝った戦友に報いるためにも戦争は絶対にしてはならないし、また、二度と起こしてはならない。

 招集から終戦までの従軍の日々は語っても語り尽くせない苦闘と惨状の日々であったが、その苦しみの中にも耳新しい日々があり、武勇伝あり、後世に語り残す処世訓もあるものと思う。こんな生々しい体験をもとに子どもたちに聞かせた語り草は、どの子も耳を傾けて聞いたものであった。また、親としても得意満面になったことや子どもの質問に戸惑うこともあったことも否定できない。子どもたちにとっては知られざる戦争生活の切迫する興味と殺伐的洗脳の中に成長の日々があったものと思っている。

 しかしながら、せっかくの昔物語も思い出し放題で断片的なために記憶も散漫的にならざるを得ない感があったので、40年前の定かでない記憶を努めてよみがえらしつつたどり書きしたものである。これを子々孫々の後世に残すことによって、平和な家庭生活と社会に生きるためのよすがになることを念ずると共に確信するものである。

 最後に再度、戦争は人生最大の敵であることを再述すると共に戦争はすでに終わったけれども散華した戦友の姿が忘れられない限り、自分自身の内的戦争の傷跡は終生消えないことを付言する。

 この従軍記はあくまでも記録であって戦争復員後この計画を考えていたもので、昭和54年(1979年)1月着想以来、仕事の合間をみてメモ書きしたものを再々収録したものである。年月日については、多少の違いとずれがあることは記録模索収録のためにやむを得なかった。

 南方の暑さに負けない今は昭和56年(1981年)、宿毛の山々から聞こえてくる盛夏の蝉しぐれを聞きながら、散華戦友への合掌とこの遺稿の評価を期待しつつ戦争紀行誌編を擱筆する。

終わり

昭和56年(1981年)7月30日
竹村政治 誌書


昭和17年8月28日(1942年)
○召集令状
 真夏の太陽の照り続ける暑い暑い日だった。四国配電(株)新居浜本社において女の子から宿毛よりの電報を受け取った。〝9月1日ニウタイスグカエレ〟

カテゴリー: 社会

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