2020.05.17 08:42

「マスク着用を」100年前も スペイン風邪3年間で3回流行

マスク姿で仕事をする高知市の郵便局員(1920年1月18日付の土陽新聞)
マスク姿で仕事をする高知市の郵便局員(1920年1月18日付の土陽新聞)
高知でも今と重なる光景
 今から約100年前の1918(大正7)年、未知のウイルスが全世界を襲い、3年間にわたって計3回のパンデミック(世界的大流行)を引き起こした。

 スペインでの流行が大きく報じられたため「スペイン風邪」と呼ばれたA型インフルエンザウイルスは、米国や欧州で感染が広がり、全世界に拡大。全世界の死者数は推計2千万~5千万人。日本でも猛威を振るい、内務省の統計で患者数は全人口の半数近い約2380万人、死者数は約38万8千人に上った。

 高知でも3回流行し、延べ患者数は全県民の約2割にあたる15万2千人で、約1400人が死亡した。最初の流行はなすすべなく終わったが、第2流行期は、感染対策としてマスク着用を呼び掛けるスローガンが盛んに繰り返された。国や県は、官公庁や映画館、電車など人が集まる場でのマスク着用を呼び掛けた。マスクという物や言葉が日本に広く定着したのは、このスペイン風邪の第2流行期からになる。

 1920(大正9)年1月。当時の高知新聞は次のように記している。〈自己の病気は社会の病気である。社会生活の何たるかを解する者はマスクを用ふべし〉

 土陽新聞は「命の擁護 高知局のマスク使用」という見出しで、マスク姿で郵便物を仕分ける郵便局員の写真を掲載。100年を経て、今の社会と光景が重なる。


スペイン風邪に関する1920年の土陽新聞と高知新聞の記事
スペイン風邪に関する1920年の土陽新聞と高知新聞の記事
スペイン風邪流行 県内は44連隊駐屯地から拡大
 1918(大正7)年から3年間3回にわたって全世界で猛威を振るったスペイン風邪。高知での第1、第2期の流行はいずれも陸軍歩兵第44連隊駐屯地(現・高知市朝倉地区)から感染が始まっている。第1期には十分な感染対策が取れずウイルスに対してなすすべなく多くの死者を出し、第2期にはマスク着用のスローガンが社会を席巻した。第3期は小規模で終わったが、それでも5人の死者が記録されている。犠牲者の多かった第1、2期を中心に、高知における感染の推移と、国や県が示した感染予防策の詳細を当時の新聞記事から読み解く。

都市機能停止 医療も崩壊 未知の伝染病 大混乱
 スペイン風邪は、日本では「流行性感冒(かんぼう)」と呼ばれ、当初は「たちの悪い流行性の風邪(感冒)」と認識されていた。最初悪寒がして、39度の発熱や喉の痛み、くしゃみ、嘔吐(おうと)の症状があり、肺炎などに進行して死に至るケースが多かったという。

 スペイン--という名称だが、同国の被害が最も甚大だったわけではなく、最初の発生地がどこなのかにも諸説ある。

 日本国内は、第1流行期から、新聞に「流行性感冒に効く」とうたう多種多様な市販薬の広告が掲載されたが、実際に特効薬と呼べる薬はなかったようだ。病原体の研究は世界中で進められ、第2流行期前には日本でも複数のワクチンが開発された。国も接種を奨励したが、その効果を疑問視する声は多かった。

 スペイン風邪のインフルエンザウイルスの病原体が特定されたのは1997年のことで、100年前の行政や医師らはまるで暗中模索の状態だった。

【第1流行期(1918年8月~19年7月)】
■秋から冬に
 スペイン風邪の感染拡大は全国的に第1流行期(1918年8月~19年7月)の被害が特に猛烈で、第2期(19年9月~20年7月)、第3期(20年8月~21年7月)へと次第に規模は縮小した。高知の第1期の実態を当時の新聞記事から分析した土佐史談会副会長の公文豪さん(71)の論文「スペイン・インフルエンザと高知県」(土佐史談251号、2012年発行)からは、未知の伝染病が襲来し人々が大混乱となった様子が浮かび上がる。

 1918年春に米国で感染が拡大し、欧州などを経て高知に襲来したのは同年10月20日前後。まず兵士が集団生活をしている朝倉の陸軍歩兵第44連隊で流行し、10月末には高知市内に瞬く間に広がり、11月に入ると郡部に拡大した。各地で患者数、死者数が急増する感染爆発が2~3週間にわたって起きている。

 高知市は職員らが感染して出勤できず、官公庁や銀行、商店、交通機関が業務中止や臨時休業となり、都市機能が停止する事態に陥った。病院は患者であふれ、新患者の受け入れ拒否、感染による医師の死亡など医療崩壊が各地で発生。死亡者が急増し、遺体を入れるひつぎが足りなくなったという。

 学校でも児童生徒の大半が登校できなくなり、県は郡長・市長に学校医らと相談して感染予防のため休校措置を取る通達を出し、休校が相次いだ。各種会議や劇場の興行、運動会なども中止・延期を余儀なくされた。

患者の隔離を呼び掛けるポスター(1920年)=国立保健医療科学院図書館所蔵・内務省衛生局編「流行性感冒」より
患者の隔離を呼び掛けるポスター(1920年)=国立保健医療科学院図書館所蔵・内務省衛生局編「流行性感冒」より
■学校や催し再開
 人の密集する場が減ったことで、感染は下火になっていく。高知市では11月中旬、郡部では11月末~12月初旬に学校や演劇場などが順次再開。市内中心部に約500人が集まった提灯(ちょうちん)行列や、大勢の観客が訪れた中等学校の運動会など、延期されていた催しが多数行われた。

 第1期当時、マスクは普及しておらず、手洗いや消毒などの具体的な衛生対策も行われないまま、経済・文化活動が再開された。新聞記事では「平癒すれば免疫ができるから感冒に対しても安全な状態である」と医師が語っており、県民の大多数が感染したことで集団免疫ができているという意識があったようだ。

 12月以後、44連隊や郡部で患者が発生する地域的なクラスターが見られたが、当初のような感染爆発は起きなかった。以降患者数は右肩下がりで、最初の流行は19年7月ごろには収束する。  

【第2流行期(1919年9月~20年7月)】
後手に回った対策 「歴史の教訓生かせ」

 第1流行期が終わり、19年の夏場はなりを潜めていたスペイン風邪は、秋ごろから再び流行が始まる。12月には東京・大阪の都市圏で患者・死者が増え始め、高知で感染が拡大したのは翌20年1月初旬。再び朝倉の44連隊で患者が確認されたのを最初に、高知市内から郡部へ感染が広がった。

マスクとうがいを奨励した感染予防のポスター(1920年)=国立保健医療科学院図書館所蔵・内務省衛生局編「流行性感冒」より
マスクとうがいを奨励した感染予防のポスター(1920年)=国立保健医療科学院図書館所蔵・内務省衛生局編「流行性感冒」より
■「始末に負えない」
 高知では、感染拡大に際して県が経済や文化活動の制限を打ち出すことはなく、これまで普及していなかったマスクとうがいによる感染予防で事態を乗り切ろうとした。

 1月中旬には、内務省が各県に防疫官を派遣し、官公庁でのマスク徹底と電車などでマスクを着用しない者の乗車拒否ができる旨を知事に通達した(篏口(かんこう)令)。感染防止の注意書きやイラストで感染予防策を記したポスターの全国配布が行われ、マスク着用が対策の柱となっていく。

 内務省衛生局の防疫官は「最も恐るべき伝染病は流行性感冒。予防を講ずる他はない。隔離病棟の建設は患者数が多く現実的ではない。始末に負えない病気で頭を抱えている」と高知新聞紙上で危機感を語っている。

 国の動きを受けて、県衛生課が予防心得を発表。「この病気は他人のせきやくしゃみの唾が鼻や口から入ることでうつることが多く、感染を防ぐにはマスクを家庭で手作りして使用すべし」と推奨した。また、人が集まる劇場や映画館が危険であるとし、「出入りする時はマスクを着けることを怠らないように」と呼び掛けた。

 マスクの使用は注意の掲示だけでは徹底されず、マスクをしない者の劇場、映画館への入場を禁止する処置を取らせている。

 また、県警察部は「製紙工場などで感染が広がれば、県産業に大打撃が生じる」として県内約200の工場に「安全第一予防書」を送付。高知市会(市議会)で工場伝染病予防規程の制定が提案され、患者の報告や隔離、衛生対策の徹底などが盛り込まれた。

 高知市で感染拡大が落ち着き、逆に郡部で患者数が増えた1月末には、県内の各警察署が1日の新患者数、死亡者数を発表するようになり、感染の収束を見極めようとする動きが出ている。

 2月初旬には、明治時代に何度も伝染病流行時に出されてきた大清潔法に基づく一斉清掃を高知市が実施。家具を外に出して日光で乾燥させるよう各戸に求め、屋内の掃除や溝掃除などを市内で一斉に行った。2月以降患者数は減少に転じ、第2流行期は収束に向かった。

 新聞には、マスクやうがいが十分徹底されていない状況も記されており、衛生対策の効果がどれほどあったかは分からないが、第2期の高知県の患者数は約5千人(死者486人)で第1期の3%程度まで減少した。

■手洗いは…
 当時重要視されていたのは、せきやくしゃみによる飛沫(ひまつ)感染で衛生当局はうがいやマスクを奨励した。手洗いに関する注意事項は少なく、接触感染への対策は十分でなかったようだ。

 また、国や県が衛生対策を打ち出したのは流行が高知で少し落ち着き始めた1月中旬以降で、土陽新聞は「対策がいまごろでは遅い」と後手に回った行政の施策を批判している。

 公文さんは「100年前も現在も未知のウイルスに対する感染予防策は大きくは変わっていない。地震津波と同様に、人類はウイルスとの闘いを繰り返し、多くの犠牲を払いながら、乗り越えてきた。大切な事は歴史の教訓を記録に残し、忘れず、次に生かすことだ」と話している。

 ■ ■ 

 論文「スペイン・インフルエンザと高知県」は土佐史談会のホームページで読むことができる。(楠瀬慶太)

カテゴリー: 社会主要

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