2016.06.24 08:15

奇跡の笑顔 高知県立大の田中教授に聞く 母・理恵さんの手記

音十愛ちゃんの盲学校幼稚部入学運動で会長を務めた田中きよむ教授は、「権利は待っていても降ってこない」 (高知県立大・池キャンパス)
音十愛ちゃんの盲学校幼稚部入学運動で会長を務めた田中きよむ教授は、「権利は待っていても降ってこない」 (高知県立大・池キャンパス)
 6月24日の「方丈の記」は19日まで高知新聞朝刊で連載した「音十愛11歳 奇跡の笑顔」を受けての特集です。生まれてきたわが子に障害があると、そこから一家の人生は大きく変わります。高知市の山崎理恵さん(49)、音十愛ちゃん(11)親子は、全盲で多発奇形という絶望の淵から立ち上がり、数々の試練を乗り越えてきました。医療、福祉関係者の支えがあっての今日ですが、一方で障害児家庭の切実な現状もあぶりだしています。親子が頑張り抜いた11年間の意味を、困窮者支援や障害者福祉に実践的に関わる高知県立大学の田中きよむ教授(53)=社会保障論=に聞き、母の手記も紹介します。

■高知県立大の田中教授に聞く 母娘の勇気に敬意と感謝■
■切実な願いが心打つ■
 音十愛ちゃんがここまで成長できた最大の要因は、お母さんの熱意です。障害の有無、軽重に関係なく、障害児には学ぶ権利があります。「発達保障」です。ただ、それを実行するとなると、壁は厚い。そんな中、8年前に「障害があっても幼児期の教育を大事にしたい」というお母さんが現れた。切実な要請が、みんなの心を打ったんです。ポイントは、周囲の支援が本人たちを置き去りにしなかったこと。支援運動は時折どっちが主役か分からなくなるんです。

■同情だけでは波起きぬ■
 音十愛ちゃんの盲学校幼稚部入学支援運動が起きたのは、国連総会で「障害者権利条約」が採択(2006年)された2年後のことです。運動の方向性としては間違ってないわけです。ただ、権利は待っていても降ってはこない。自分たちで作り、さらに制度化を求めないと生きた権利になりません。社会の中で合意形成を図るには、県民に向けて問題を提起し、声を上げ、同意を獲得していかねばならないんです。

 同様の立場の家庭は少なくないんですが、行動に移すケースはまれです。山崎さんは、苦しい状況の中でも明るく前を向き、どこでも子供と一緒に人前に立たれる勇気と力強さがあった。その生き方に周囲が励まされたのです。同情だけでは大きな波にならない。生き方を教えられているというか、「ハンディがあっても、これだけ頑張っておられる」という姿に周囲が突き動かされたのです。

■行政をハッとさせた■
 私は全国障害者問題研究会高知支部長でもあるので、入学支援運動の時、会長を引き受け高知県教育長との直接交渉にも同席しました。

 役所はですね、「こうしてほしい」と陳情を持って行くだけでは、「またか」という顔をするんです。それよりは、「こういう実践が大事」ということを、行動で示した方が訴えるものがある。行政にハッとさせるというか、「しまった!? こんな大事なことを応援してなかった」と目覚めさせたら勝ち、というのか。

 「障害児者の社会への積極参加のために条件を整えてほしい」と、人間として当たり前のことを訴えた。音十愛ちゃんのケースは、国連の障害者権利条約批准に向けて成立した障害者差別解消法(2016年4月施行)のはるか以前の話。全国でも先駆けに属する行動だったわけです。

■全体像なき支援■
 その主人公が着実に成長・発達している現実は、障害児者支援の成功例として貴重です。障害児者を支える医療、福祉はそれなりに進歩していますが、各職種の「専門職」としての限界もある。彼らは「部分」しか見ないので、自分が勉強した範囲内では「トレーニング」や「治療」という形で応援、アドバイスできるのですが、その人を「人間」として、生活全体でとらえたアドバイスはありません。

 個々の訓練で部分的に伸ばせても、「この子の人生がどうなるのか」という答えにはつながらない。専門家がよく見落とすのはそこです。「どういう生き方をしたい」という全体像を踏まえた上で、各専門職が連携し、どのように最終目標に近づけるのかが問われます。それ抜きに治療、訓練してもタコつぼにはまってしまうだけなんです。

 「ライフヒストリー」を大事にしようという発想が近年、介護、看護の世界で広がりつつあります。サービスを提供する側の「職場の都合でやれる、やれない」でなく、その人の生活リズムや大切にしたい生き方を実現するためには、どう支援すればいいのかということです。福祉というのは結局、一人一人の価値ある生き方の達成を支援すること。そして、支援者もそれを通じて成長・発達して自己実現することです。

知的障害児の父・糸賀一雄さんの著書「この子らを世の光に」
知的障害児の父・糸賀一雄さんの著書「この子らを世の光に」
■糸賀一雄さんの思い■
 私の父は、戦後日本の知的障害児福祉施設の草分け「近江学園」(滋賀県)の研究職でした。その初代園長で「知的障害児の父」と呼ばれる糸賀一雄さんの信念に「この子らを世の光に」という言葉があります。「この子らに世の光を」ではありません。

 音十愛ちゃんが果たした役割はまさにこれです。「光を当ててやらなければ」と思っていた対象が実は「光になった」。高知県の特別支援教育をランクアップさせたのです。あの運動が先鞭(せんべん)となり現在、県内では医療的ケアの必要な子が、どこの支援学校でも学べるようになったのですから。

 音十愛ちゃんに続く多くの家庭が、「どんなに障害が重くても学ぶ権利がある。遠慮する必要がないんだ」と思える道を開いてくれたと言ってもよいぐらいです。これまで、山崎さん親子のために周囲が動いてきたんですが、それは2人の強い意思が突破口となったのです。だから、われわれや障害のある人、家族、県民みんなが、その勇気に対して敬意を表し、感謝してもよいぐらいの話なんです。

 田中きよむ(たなかきよむ) 滋賀県大津市生まれ。滋賀大経済学部卒。京都大大学院博士課程単位取得後、高知大学へ。高知大学教授を経て現職。教育、研究活動の傍ら、「ホームレス支援と貧困問題を考えるこうちの会」代表、高知県介護ケア研究会会長などとしても精力的に活動。


放課後デイサービス事業所の朝の特別送迎支援で、盲学校へ登校する音十愛ちゃん。このおかげで母、理恵さん=右=は働くことができる(高知市)
放課後デイサービス事業所の朝の特別送迎支援で、盲学校へ登校する音十愛ちゃん。このおかげで母、理恵さん=右=は働くことができる(高知市)
 ■母・理恵さんの手記■
■精いっぱいやったけど… ■
■支援あっても厳しい現実■
 もしも音十愛に出会わなければ、私はどんな人生を歩んでいたのだろうか? 多くのハンディを背負いながらも必死で生きる娘の姿から多くの大切なことを教わり続けています。そして私は、人として母として成長させてもらっていることが何よりの誇りです。

 音十愛の命を守ることで必死だった時期、私は母として、妻として、嫁として、何役もこなさなければならなかった。常に忙しそうにしている私の背中に向かって、幼い長男と長女は一生懸命、話しかけてきた。もっともっと抱きしめて、たくさん話を聞いてあげたかったのに、ごめんね…。まだまだ母の愛情が欲しかっただろうに。それが分かっていても、毎日、延々と続く音十愛の介護に疲れ果て、心に余裕が無くなり、「ちょっと待ってて!」の連続。そして、少しのことでイライラして、思わずきつい叱責(しっせき)が出てしまい、虐待の一歩手前で苦しんでいたのです。

 医療的行為が必要なことや、泣き叫び暴れるたび周囲に迷惑をかけてしまう恐怖で、家族で外食へ出掛けることができず、子供たちの夢だった東京ディズニーランドへの旅行もかなえてやれなかった。夫は、私と音十愛の長期にわたる母子入院中、残業をしながら、自分のやりたいことも我慢して、兄姉の面倒も見てくれ、良い父親でした。

 そんなみんなの我慢も限界が来て、いつか破綻してしまうかもしれない―という不安を抱えながらの日々を送り、10年が過ぎた2015年、現実となりました。私は息子と暮らすことができなくなり、子供たちも兄妹が別れ別れになるという悲しい結果にさせてしまった。どんなことがあろうとも守り抜く覚悟で育ててきたはずなのに…。あれ以上、私たちはどう頑張っていればよかったのでしょう。

 11年間、重症児を在宅で介護して思うこと。それは、重く長い介護が続くことで気力や体力が奪われることです。家族だけでは到底、乗り越えることができない現実に直面し続けました。

 音十愛が生まれてまず立ちはだかったのは病院探しでした。高知県内では思うような治療が望めず、家族を置いて県外へ。時間やお金をかけなければならない。いつまでたっても良くならないわが子の将来に希望が持てず、生きる気力さえ失って行く。普通の育児は、1年頑張れば、自力で立ち、スプーンを持ち、1人で食べ始める。トイレで排せつもでき、夜もよく眠る。「1年頑張れば何とかなる」、そう思うと頑張ることができるんでしょうが、これが何年続くか分からない、いや永遠に続くかもしれないと思うと、気が狂いそうになることもありました。

 2015年、長女が中学2年の時、自分の居場所が見つからず、自分を傷つけ始めていました。私はそんな長女の心の闇に気付いてやれず、いや気付いていたのに、関わる気力が無くなっていました。「自分の事は自分でしてね」って…。助けを求めていたのに拒絶していた最悪な母でした。そんな私の家庭の状況を、そばで見ていた数人の支援者の方たちが、私から介護の負担を減らし、音十愛と分離させ、長女との溝を埋める時間ができるようにと動いてくれました。おかげで再び親子の絆を取り戻すことができ、手遅れにならず済みました。あの時、気付いてもらえなかったら、私と娘たちはどうなっていたか分かりません。

 重症児が家族とともに在宅で生きて行くために、家族への支援サービスは何より重要と感じます。いったん体調や精神状態をリセットして再び介護に向き合えるため、週に何日かは夜も預かってくれる施設が必要なのです。しかし、在宅重症児者のショートステイの主要な受け入れ施設は高知県内で3カ所、合計10ベッドしかありません。私たちと同じ様な思いを繰り返さないためにも、もっと気兼ねなく利用できる社会になることを心から願っています。

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