2019.07.15 08:38

選挙上手、遊説人だかり 板垣退助あす7/16没後100年

高知市で演説する71歳の板垣退助を描いた「土陽新聞」の挿絵。63歳で政界を引退した後は社会改良運動に奔走した
高知市で演説する71歳の板垣退助を描いた「土陽新聞」の挿絵。63歳で政界を引退した後は社会改良運動に奔走した
政治手腕で4党統合
 自由民権運動を指導した板垣退助が82歳で亡くなって16日で100年となる。征韓論に敗れて参議を辞し下野、国会開設を求める民撰議院設立建白書を提出し、日本初の政党である「自由党」を結成した。帝国議会が開設されると、板垣の活躍の場は議会へと変わる。1890(明治23)年の最初の衆議院選挙後から計5回の国政選挙を与野党の党首や代表として戦い、選挙応援演説では絶大な人気を誇った。選挙には出馬せず非議員だった板垣は、政治家としてどのように政党や議員をまとめたのか―。
 
 国会開設後の選挙は、薩長の藩閥政府の息のかかった与党に、民権運動の流れをくむ自由党系や大隈重信らの改進党系の野党が挑む構図。板垣は第2回から第5回衆院選までは野党・自由党の党首、第6回衆院選では与党・憲政党の代表として選挙期間中全国を遊説し、党の候補者を応援した。
 
 「板垣を一目見ようと演説に大勢の人が詰めかけ、神様と慕う人もいるほどでした」
 
 日本近代史が専門の跡見学園女子大の真辺美佐准教授(高知市出身)は話す。各地での演説には千~2千人規模の観衆が集まり、「板垣伯万歳」「自由万歳」などののぼりを立てて出迎えた。その効果は絶大で、党員は遊説の資金を集め、こぞって地域に板垣を呼ぼうとしたという。
 
 「『板垣死すとも自由は死せず』。この言葉が板垣をスターにしたと思います」
 
 1882(明治15)年、岐阜で演説中に刺客に襲われた板垣が発したとされる言葉は全国に広がる。明治維新の元勲、民権運動家としての知名度を背景に、板垣は国政選挙を盛り上げる存在となった。
 
 ■非議員の立場で
 伯爵の爵位を受けたため、衆院選挙には出馬できず、貴族院議員の打診も断った板垣は、帝国議会では非議員の立場で自由党の党首として、議会外から国政に関わった。
 
 中京大の中元崇智教授の研究によると、自由党は議員でつくる政務調査部などの組織が政策を立案し、板垣は代議士会総会に議長として出席し、審議、決定していく体制を取っていたという。
 
 板垣は党員中心でなく、国政にいる議員が中心となり、政策や議会対策を考える政党運営を目指した。真辺准教授は「板垣は党のシンボルとして影響力を発揮したが、意見の異なる議員や党員間の調整には苦労したようです」と解説する。
 
 ■時には妥協も
 時には政府側と妥協する姿勢が批判された。土佐史談会の公文豪副会長は「諸外国との条約改正問題を抱える日本の議会が野党の反対で解散、解散では、立憲国家として世界の中で一人前だと認められない。大きな視野で政局を捉えていた」と話す。
 
 板垣は初の総選挙後に自由主義という大きな理念を掲げて旧自由党系の四つの政党を統合させ、立憲自由党(後に自由党に改名)をつくった。
 
 公文副会長はその政治手腕に着目し「政党同士が対立している時、個人の力ではどうにもならない。板垣が各党をまとめたように、先を見据えて日本の未来を考える大きな理念や主義を掲げて連携してほしい」と話していた。(楠瀬慶太)
 
《ズーム》板垣退助(1837~1919年) 土佐藩上級藩士の家に生まれ、倒幕運動に参加し、戊辰戦争を新政府軍の参謀として戦う。維新後参議となったが、後に下野して自由民権運動の指導者となる。帝国議会開設後は自由党、憲政党で党首を務める。第2次伊藤内閣、第1次大隈内閣の内相。

カテゴリー: 政治・経済


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