2018.07.21 08:00

【ビキニ訴訟】司法は本質に迫ったのか

 1954年に米国が太平洋のビキニ環礁で実施した水爆実験を巡る重い事実に、司法はどこまで向き合ったのだろうか。
 当時、周辺海域で操業していた県内外の元漁船員らが、被ばく線量などを記した文書を開示しなかったのは違法だとして国に損害賠償を求めた訴訟で、高知地裁はきのう、訴えを棄却した。
 厚生労働省が故意に文書を隠したとは認めず、国家賠償請求権が消滅する20年の除斥期間も過ぎているとした。
 ビキニ水爆実験は日本にとって、広島、長崎に続く第三の被ばくとも呼ばれる。最大の責任はもちろん米国にあるが、問われ続けてきたのは日本の姿勢と言ってよい。
 当時、第五福竜丸(静岡県)の被ばくと船員の死亡に世界的な関心が集まった。日米両政府は、米側が見舞金を支払うことで法的な責任を不問にする政治決着を図った。
 これが、周辺海域で漁をしていた高知県船籍を含む多くの船の被ばくを放置することになる。国は86年の国会で、第五福竜丸以外の船の調査文書などの存在を否定。存在が確認できたとして厚労省が開示したのは2014年だった。
 文書には当時の船の検査結果などが記されている。多くの元船員が事実を知らされず、救済もされてこなかったことを物語る。既に亡くなった人も多い。元船員や遺族らが国は故意に文書を隠したと訴えたのも当然のことだ。
 ビキニ被ばくを巡る初めての国賠訴訟だったが、司法は問題の本質にどれだけ迫ったのだろうか。
 裁判や、提訴に至るまでの支援団体の活動などから改めて浮き彫りになったのは、60年にわたる政府の無責任ぶりだ。
 政府は国民の生命や尊厳を守る使命を怠った。文書も、故意に隠したかどうかによらず、事実上、闇に葬ってきた。 
 最近の一連の公文書を巡る問題にも通じるものがある。存在する文書を「ない」「廃棄した」と強調し、報道機関や国会の追及を受け、後から「見つかった」と報告する。
 公文書は、国民の「知る権利」が保障されるために不可欠な財産である。情報公開制度は最近になって整ってきたが、肝心の公文書に対する官僚の認識が改まっていないというしかない。
 高知地裁は判決で「漁船員の救済の必要性については改めて検討されるべき」だとの考えを示した。現行法では司法的救済は困難とし、「立法府および行政府による一層の検討に期待するほかない」と指摘した。
 法の解釈を巡っては議論の余地があり、司法の逃げとの批判もあるだろう。一方で、政府がこれまでの経緯をしっかりと踏まえ、救済に力を入れるべきなのも確かだ。
 原告団が訴えるように、ビキニ事件は終わっていない。立法府や司法、国民も引き続きこの問題に向き合う必要がある。
カテゴリー: 社説


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