2017.12.05 08:25

オランダ人が見た戦後 著述家・ブリンクマンさんが高知へ

「高知県に来るのは6年ぶりです」とほほ笑むハンス・ブリンクマンさん(佐川町内)
「高知県に来るのは6年ぶりです」とほほ笑むハンス・ブリンクマンさん(佐川町内)
 太平洋戦争後の復興期から銀行の駐在員として長く日本で勤務し、国際銀行協会の会長も務めたオランダ出身の著述家、ハンス・ブリンクマンさん(85)=福岡市在住=が、友人のいる高知県高岡郡佐川町をこのほど訪れ、高知新聞の取材に応じた。昭和、平成、そして次の時代―。経験豊富な知日派が当時の写真を基に戦後日本を回顧し、現代の課題を語った。

1960年、東京・有楽町の街角で物乞いをする傷痍軍人(ブリンクマンさん提供)
1960年、東京・有楽町の街角で物乞いをする傷痍軍人(ブリンクマンさん提供)
天皇陛下、田中首相と面会
 初来日は1950年。オランダの銀行の駐在員として神戸で働き始めた。敗戦から5年を経て、倒壊した家屋のがれき処理が終わり、建物の修繕や再建築が始まったころ。爆撃の影響で道路にはまだ多数の穴が残っていたといい、「三輪自動車のタクシーがよくはまったのを覚えているよ」。

 連合国側のオランダで生まれ育ったブリンクマンさんからすれば、日本は元敵国。ただ、「日本という国は戦争に負けたが、国民は希望を捨てていなかった。『絶対に復興する』という前向きな精神に強い感銘を受けた」という。

1960年、東京・神田の書店で漫画を読む子どもたち(ブリンクマンさん提供)
1960年、東京・神田の書店で漫画を読む子どもたち(ブリンクマンさん提供)
 1960年代に入ると、日本社会はより劇的に変化し、五輪開催の決まった東京など都市部では近代的な建物が立ち並んだ。子どもたちは少年漫画に夢中になり、テレビのカラー放送も始まった。ブリンクマンさんは1964年、東海道新幹線の初運航便に乗車して高度成長の“現場”を体感している。

 一方で、かき消すことのできない「敗戦」の現実を目の当たりにすることもあった。

 「おしゃれな格好をして街を歩く人々の横で、腕や脚のない傷痍(しょうい)軍人が物乞いをしていた。そこに誰もいないかのように人々が通り過ぎていくのは衝撃的だった」

 「礼儀正しく才能に満ちた日本人が、なぜこうまで彼らの不幸を無視できるのか」と矛盾を感じたというが、自身も日本での生活を続けるにつれ「見ないふりをすることを学んでいった」という。

1973年、首相官邸で田中角栄首相とともに写真に写るブリンクマンさん=右(ブリンクマンさん提供)
1973年、首相官邸で田中角栄首相とともに写真に写るブリンクマンさん=右(ブリンクマンさん提供)
 1972~74年に内閣を率いた田中角栄元首相は「日本列島改造論」を打ち出して全国に新幹線や高速道路網を張り巡らし、「日本国内は大いに沸き立っていた」。そう振り返るブリンクマンさんは当時、東京で米国の銀行の日本支店長を務めており、時の宰相に表敬訪問する機会も得た。

 「ミスター・タナカの印象? ぶっきらぼうに『どうぞ』とお茶を勧めるばかりで、私との会話には興味がないようだったね。面会は10分程度で切り上げられてしまったよ」

1974年、東京・上野文化会館で当時の皇太子夫妻と面談するブリンクマンさん=右から2人目(ブリンクマンさん提供)
1974年、東京・上野文化会館で当時の皇太子夫妻と面談するブリンクマンさん=右から2人目(ブリンクマンさん提供)
 1974年には当時の皇太子夫妻(現在の天皇皇后両陛下)とも接見。「会話は交わせなかったけれど、お会いできたことは貴重な経験だった。民主的で穏健な方に思える」と述べ、近づく退位については「天皇はあくまで象徴なので、日本社会の大きな変化はないだろう。ただ、平成という時代が終わり、何かしらの変化のきっかけにはなるのではないか」と見通した。...

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カテゴリー: 社会


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