(59)「せっかくの要求だ」

日米構造協議が決着した1990年6月の第5回会合。日本は多額の公共投資を約束した(東京・霞が関の外務省)

 「市場開放を迫るだけでは日本国内の利害関係をぶち壊す。アメリカは、市場開放と同時に公共事業を増やせば自民党も国民も喜ぶと考えたんだよ」

 今は東京の格付け会社で社長を務める内海孚(まこと)氏(76)。大蔵官僚としてかかわった日米構造協議の舞台裏を語る。

 1990年代以降、なぜ飛躍的に公共事業が伸び、「乱造」と言われるほど国内空港整備が進んだのか…。

 ■金丸氏の電話

 90年当時、米側は日本の公共投資を国民総生産(GNP)比10%に拡大するよう求めていた。財政の硬直化を危ぶむ大蔵官僚は抗(あらが)ったが、日米の力関係はとても対等と呼べるようなものではなかった。

 90年の日米構造協議第3回会合。「(10%の目標値設定は)極めてショッキングな提案だ」と述べた大蔵省参事官に対し、テーブルの向こう側の米高官は「ショックだとのことですが、そのショックが和らいだら、この目標について考えていただきたい」と、高圧的に突き返している。

 同年6月、協議を決着させた第5回会合で、海部内閣は向こう10年間で道路や港湾など総額430兆円の公共投資を行うと米側に約束した。GNP比10%には至らなかったが、それでも過去10年比で1・5倍以上の金額だった。

 「アマコストが金丸さん、小沢さんと話を付けていたんだ」

 湾岸戦争時に日本の協力を強く迫るなどし、ミスター・外圧≠ニも呼ばれた当時の駐日大使、マイケル・アマコスト氏。彼は自民党の金丸信元副総理、小沢一郎幹事長と深い親交を結び、公共投資額についても3者で協議していたという。

 「『おい、せっかくのアメリカからの要求だ。500兆円ぐらい出せよ』って、金丸さんが橋本(龍太郎大蔵相)さんに電話をかけてきて。海部首相の頭越し。変な構図だったよ」

 政府は94年、公共投資計画をさらに200兆円増額。バブル崩壊後の景気対策も重なり、国債を増発して膨大な公共事業費を?捻出(ねんしゅつ)した。

 「日米構造協議を日本の財政赤字の元凶だと言う人もいるけど、結局、アメリカの外圧に便乗する動きが国内にあったということだよ」。公共事業の分配を権力の源泉とする土壌。それを熱望する列島各地の声…。

 「便乗」はやがて、航空政策にも大きなひずみを生む。

 【写真】日米構造協議が決着した1990年6月の第5回会合。日本は多額の公共投資を約束した(東京・霞が関の外務省)

 ■滑走路を延ばせ

 空港を新設・拡張する際、政府は「空港整備特別会計」から費用を配分してきた。空港特会の原資は、既存の空港から入る航空機の着陸料、燃料税など。航空需要の急速な増加に対応するため70年につくられた制度で、基本的には5年ごとに長期計画を作り、どこにどういう規模の空港を整備するかを決めていった。

 日米構造協議が本格化する前の89年時点で、日本航空、全日空、日本エアシステムの3社は「地方空港は既に十分な数がそろった。これ以上造っても路線の採算が合わない」と訴えていた。しかし、日米協議で膨らんだ公共事業費は勢い、空港整備にも流れ込んだ。空港を求める地方の声も根強かった。

 事業費をどう使うか。運輸省は「総滑走路延長指標」という新たな基準をひねり出した。国内の滑走路の長さの合計を人口と国土面積の係数で割って出した数値だ。91年からこの数値を「欧米並みに引き上げる」ことを目標にした。実に2千bの滑走路35本分に相当する規模だった。

 成田、羽田、関西国際空港の「三大プロジェクト」も進めなければならなかったが、土地代や建設費が比較的安く、都市部より事業の進めやすい地方空港を整備し、場当たり的に目標をこなそうとしたとみられる。

 そこには官僚や政治家らの権益も見え隠れしていた。

(10年5月30日付・朝刊)

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