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平成三年八月十日。高知の城下は第三十八回よさこい祭りの熱気に包まれていた。前夜の高知市納涼花火大会の盛り上がりを受けて、この日から鳴子踊りの本番がスタート。百三十七チーム一万六千二百人の踊り子たちが一斉に街に繰り出した。
次から次へ、踊り子たちのパレードが続く帯屋町アーケード街は、通りの両側をぎっしりと見物客が埋め尽くしていた。その中に一人の若者の姿があった。当時、北海道大学経済学部二年生だった長谷川岳さん(27)=現YOSAKOIソーラン祭り組織委員会専務理事=である。
二十歳の長谷川さんが初めてよさこいと出合ったこのシーンは「YOSAKOIソーラン」の生い立ちを語るのに欠かせない、半ば伝説化された名場面といえる。この祭りを題材にした小説やルポにも、さまざまな形で表現されている。
「長谷川は、流れる汗を拭(ぬぐ)うことも忘れたまま、焼けた路上にぼうぜんと立ちすくんでいた。ボリュームをいっぱいにあげた地方車と、それぞれの衣装に身を固めた踊り子たちが次々と通過する。凄(すさ)まじいまでの音と踊りの迫力、衝撃は彼の体を突き抜けた」(北川泰斗著「街は舞台だ」)
「『すごいんですよ。(中略)南国の激しいリズムにのって若者が踊っているんです。やってる人がみんな若いんです。十代から二十代前半。茶髪もいるし、メッシュ入れてるのもいるんですがオトコもオンナも顔が生き生きして、素晴しいんです。やりたくてやりたくてたまらない、という感じなんです』」(軍司貞則著「踊れ!」)
この時、長谷川さんは兄が高知医大に在学中だった。また、母親が重病で同医大病院に入院しており、その見舞いに来高した際、たまたまよさこい祭りに行き合わせたのである。
とかく無気力といわれる若者が、目の前で燃えるようなエネルギーを発散させているのに感動した。同世代をこれほど熱くさせるものが、祭りとして存在しているのが驚きだった。はつらつとした笑顔にしっとさえ感じた。悔しかった。なんでこんな祭りが北海道にはないのか。
「よさこいを北海道に持って行く」。そう決断した長谷川さん、持ち前の行動力で猛然と走り始める。学生仲間と実行委員会を結成。協賛を求めて企業をしらみつぶしにあたる一方、札幌と高知で関係者に働き掛けた。県庁前で橋本大二郎知事を待ち伏せして企画書を手渡したり、道路使用許可の交渉にスタッフが警察に日参したり、エピソードにはこと欠かない。
無謀とさえいえるその情熱がやがて共感を呼び、翌四年六月、札幌で第一回YOSAKOIソーラン祭りが旗揚げする。踊り子は十チーム千人。小ぢんまりとした立ち上げだったが、一度レールに乗った祭りは、とどまることを知らずに急成長を続けた。
第七回のことしの参加は、本家よさこいの二倍にあたる二百八十チーム二万九千人。観客数は、実に高知県の全人口の二倍以上の百八十万七千人…。
今や「雪まつり」と並び札幌を代表する祭りといわれる「YOSAKOIソーラン」。そのルーツをたどれば平成三年夏、南国土佐で鳴子踊りを見物した長谷川さんの肌を電流のように走った感動の波に行き着くのである。
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「灼(しゃく)―よさこい進化論―」は、第一部で全国に広がる鳴子文化圏を紹介した。その背景にあるのが「よさこい」を手本にスタートし、今や本家がかすむほどの影響力を持つ「YOSAKOIソーラン」である。連載第二部は“よさこい増殖現象”を巻き起こすきっかけとなった北海道札幌市を訪ねた。
(社会部取材班)
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