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2004年4月4日(日)<朝刊>
親子ともに背番号「14」 明徳・伊賀選手
夏には、父と肩を並べたい――。明徳義塾高の背番号「14」、伊賀聖記選手(17)は、元高校球児だった父、潔さん(39)=兵庫県浜坂町=の背中を追っている。全国級の実力を備えながら、チームメートの不祥事による出場辞退などで、悔い多き野球人生だったという父。くじけそうになったとき、そんな父の励ましが聖記君を支えている。
【写真上】スタンドで応援する伊賀選手の父、潔さん
甲子園にあこがれた潔さんは親元を離れ、鳥取県の倉吉北高に進学。2年の春、聖記君と同じ背番号「14」で甲子園のベンチ入りを果たした。しかしその後は部員の暴力事件など不祥事続き。甲子園の懸かった2大会は出場辞退、出場停止処分となり、甲子園の一けた背番号は幻と消えた。
「全国でも優勝を狙える」と前評判の高いチームでクリーンアップを打つはずだった潔さん。「出場できなくても、最後まで練習はした。でもこれ以上ない挫折感だった。子どもにはこんな思いはさせたくない」―。
潔さんは21歳の時、妻の幹子さん(39)と1歳にもならない聖記君の目の前でトラックにはねられた。意識不明の重体。奇跡的に回復したものの、一時は重い後遺症も覚悟した。
これをきっかけに、人生観ががらりと変わった。好きな野球ができなくなるかもという思いから、幼い聖記君に野球を教え始めた。「自分の夢を子どもに懸けてしまったのかも」。幹子さんも「巨人の星の星一徹じゃないけど、そこまでするかー、というときもありました」と振り返る。
しかし聖記君は父と同じ道を選んだ。明徳が松坂大輔投手を擁する横浜高と激戦を演じたのは、聖記君が小学6年の夏。秋には高知を訪れ明徳義塾中の試合を観戦し、「中学校から入りたい」と父に告げた。
そんな聖記君に潔さんが与えた試練。「毎日、雨でも雪でも5キロ走りなさい。それができたら行かせてやる」。聖記君は約4カ月、走り抜いた。
初めて先発フル出場したのは昨秋の四国大会の済美高戦。悔しい逆転負けだった。甲子園で巡ってきた雪辱の舞台は、またしても敗戦。最終回、代打で出場し選んだ四球も実らなかった。「今は裏方で自分のできることを精いっぱいするだけですけど、夏には表舞台に出ます」と涙は見せなかった。
父子ともに、背番号「14」が甲子園の原点。だが聖記君にとってレギュラー背番号は、決して幻ではない。
【写真下】最終回、代打の先頭打者で四球を選び逆転の望みをつなぐ伊賀聖記選手
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