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2002年8月22日(木)<朝刊>
幾多の辛苦糧に成長 明徳野球史
明徳義塾の歴代チームを草創期からたどれば、全国の頂点に立つまで幾多の辛苦をなめてきた。
野球部創部は開校の1976年。故吉田幸雄・初代校長は「3年で甲子園へ」と唱えてどのクラブよりも充実に力を入れた。学校自体1年生ばかりで公式戦では強豪私学の土佐、選抜大会準優勝する中村らにコールド負けを繰り返した。
初代ナインは併設の中学時代、高知高の監督だった故溝渕峯男氏の指導を受けている。創部時代の“恩師”が、今回の県勢2度目の夏の優勝にさかのぼる、38年前の初の県勢優勝監督だったのも因縁めく。
故初代校長の唱えた「3年」では、甲子園には出場できなかったが、初代ナインが3年生になったあたりから急速に力を伸ばし始めた。
監督は初代が武市隆氏(現県高校野球連盟理事長)、2代目が吉田圭一氏(現校長)。そして、3代目の故松田昇氏が実質監督として指導し始めたころだ。同氏は高知商の名伯楽として、春夏12度の甲子園に出場していた。
後にプロ入りする河野博文投手(元日本ハム―巨人)、横田真之(元ロッテ―中日―西武)らも入学。しかし、2人が3年生の80年、高知商には中西清起投手(元阪神)が立ちはだかっていた。甲子園初出場はさらに2年を待たなければならなかった。
82年選抜大会で甲子園に初出場した明徳は、前年秋の明治神宮大会で優勝して勇躍乗り込んだ。「孫を連れてきた」といわれた故松田氏の最後の甲子園だった。しかし、2回戦、箕島(和歌山)に延長十四回サヨナラ負け。明徳と和歌山県勢との対戦はこの時が最初で、今回の智弁和歌山戦が2度目。最高の舞台で雪辱を果たしたのだった。
甲子園優勝チャンスは、松田氏の急逝で後を引き継いだ竹内茂夫氏(前松山聖陵監督)1年目の83年選抜大会。準決勝は、故蔦文也監督率いる池田で4番打者のエースは水野雄仁投手(元巨人)だ。1―0でリードしていた明徳は八回裏に2点を奪われ逆転負け。決勝で横浜商を破って優勝した池田の水野投手がインタビューで「明徳戦に勝った時が(優勝より)うれしかった」と話した緊迫の試合だった。
学校関係者の不祥事もあって84年夏から甲子園出場は途絶えた。古豪高知商に「名前負け」していた時代だった。87年選抜大会に町田公嗣郎主将(現広島)を立てて久々の甲子園出場を果たしたが、初戦敗退した。
90年に竹内監督から馬淵史郎監督にバトンタッチ。91年夏に「甲子園デビュー」した「馬淵・明徳」も今回の14度目の甲子園までに、92年夏の「星稜・松井5敬遠」や98年夏の松坂大輔投手の横浜に「大逆転負け」と試練を受けたのだった。
負けない「不敗神話」を今回の優勝チームが築き上げた土台は、竹内監督時代にある。投手を中心に守り抜く、相手のミスにつけ込む、バントによる堅実な攻め―いずれも「馬淵・明徳」は踏襲している。
県外出身の有望選手が集まってもいるが、高校野球の基本戦術を貫き通している強みがある。さらに、社会人チーム監督経験のある馬淵監督が、歴代の選手との葛藤(かっとう)も経験しながら、投手力だけに頼らず総合力の高いチームづくりへと昇華させたと言えそうだ。
竹内氏は「近年のチームは力が四国でも抜きんでるようになった。そろそろ優勝と思っていた。ことしの場合、甲子園経験者も多いし、見ていて子どもらと指導者が一体になっていた感がある。来るときが来た。よく頑張りましたね」と馬淵監督とナインに賛辞を送っていた。
卒業生に朝青龍、三都主 明徳義塾高概略
須崎市浦ノ内に1976(昭和51)年、中学校に併設して開校。全校生徒713人(男子532人、女子181人)。堂ノ浦、竜の三つのキャンパスがある。普通、特別進学コースのほか国際、英語、中国語などユニークな選択コースを設ける。クラブは体育系20、文化系6。オーストラリアほかに姉妹校を持ち、留学生も多い。卒業生に新大関の朝青龍、十両朝赤龍、サッカーJリーグ清水の三都主。プロ野球には町田公嗣郎(広島)宮崎一彰(巨人)ら5人。ソルトレークシティー冬季五輪のスピードスケート・ショートトラック日本代表の高田貴子は体育教諭。野球部は開校と同時に創部。現在部員118人。 |