|
2002年8月22日(木)<朝刊>
「選手にやらせたらええ」 逆境から悟り 馬淵監督
さかのぼるほどに、劇的な転機がいくらでもあった。準々決勝、常総学院戦で常総のあの失策がなければ。県大会準々決勝岡豊戦で、あと1本を許していたら。そして10年前、あの辞表が破り捨てられなかったら…。
星稜・松井秀喜選手(現巨人)に対してとった敬遠策が物議を醸した10年前。次戦で敗れ帰高した馬淵史郎監督(46)は吉田圭一校長あてに辞表を提出する。だが、あっさり破り捨てられた。一から出直し。監督3年目のときだった。
当時の監督は、まさにカリスマだった。多いときの練習時間は“公称”7時間。だがそれ以上に厳しく、隅々まで目を光らせた。しごき抜いて「監督の言うことを信じていれば間違いない」と選手に信じ込ませた。
しかし敬遠騒動を機に3年間、甲子園が遠ざかった。「自分にはもう(優勝)旗が取れないんじゃないか」。不安がつきまとった。
決勝前夜、馬淵監督はしみじみ話した。「あのころは監督が野球やっとったなあ。選手にやらせたらええんよ」。
本音か冗談か分からない話術が、人を引きつける。将棋や歴史上の人物、マージャンまで引き合いに出して例え話がうまい。オフレコになるとガラッと口調が変わる。少々不謹慎だが、横浜に敗れた4年前の戦力はこう例えた。「うちが満貫張ったと思うて(甲子園に)乗り込んだのに、向こうは役満やった」。
決勝前の会見。「尊敬する歴史上の人物は誰ですか」「うーん、そうやな、ヘレンケラー」。過去に何度も受けた質問だが、同じ人物を言ったためしがない。一人歩きしている自分のイメージをちゃかし、セルフパロディーを口にして笑いを誘う。
子どもの前では気さくなおじさん。「誰でもええから明徳のサインを下さい」「おー、ほなおっちゃんでええか」――といった具合。「ほんっとに意外なんですけど、めっちゃ子ども好きなんです。あんな怖いのに」と部員の一人。
ノンプロ時代の逸話は数知れない。恩師の急逝で神戸の「阿部企業」を率いて5年目で都市対抗初出場。ベスト8入りを果たし、その秋には社会人選手権で準優勝の実績を残した。道路工事の交通整理員を夜通し引き受けるというきつい仕事を黙々とこなした。
明徳へ招かれたのは「半ばだまされた。成り行きですわ」。恩師が同じという縁で、前監督、竹内茂夫氏から練習見学に呼ばれた。と、「まあ、ノックしていけ。まあ泊まっていけ。まあ、コーチになれ、ですわ」。昭和62年のことだった。
それから15年。勝利に向けて打つ手、周到な準備、指導方針はいささかも変わっていない。でも、「今回の監督さんは何か違った」と部員たちは言う。常総戦で最も派手なガッツポーズを決めたのは、ほかならぬ監督自身。「あんな喜び方、見たことない。でもあれで一気にいける気になった」と泉元竜二右翼手。
16人の選手の目には、カリスマから一歩引いた、人間味あふれる監督の姿が映っていた。
【写真】顔をくしゃくしゃにして胴上げされる馬淵監督。明徳に赴任して15年。悲願の優勝だ(甲子園球場)
巨人松井選手も祝福
第74回大会2回戦の明徳義塾戦で5打席すべて敬遠された巨人の松井秀喜選手は、10年前の出来事を笑顔で振り返った。「今ではいい思い出。それもいい打者の証しということでしょう」
その時に敬遠を指示したことで非難を浴びた馬淵監督に対して、松井選手は逆に気遣いを見せ、「僕の5敬遠でこの10年間、監督さんもいろいろと大変なこともあったと思うけれど、こうして大きな喜びを得たことを素直に祝福したいです」と大きくうなずいた。
|