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2002年8月21日(水)<朝刊>
絶対優勝だ 明徳ばく進に声援沸騰
「ついにここまで」と感無量の学校関係者。抱き合って小躍りする母親たち――。20日、甲子園球場で開かれた全国高校野球選手権大会準決勝で、本県代表の明徳義塾は悲願の決勝進出を決めた。序盤から着々と加点する最高の展開に、応援席は終始笑顔。メガホンを振りながら選手の名前を叫ぶ息の合った声援が大きく響き渡った。
この日は1回表に1点を先行されるちょっと不安な立ち上がり。が、逆転はその裏すぐだった。応援席は沸き立った。
ヒットを打った山田裕貴選手の弟で兄と同じ大阪・港ボーイズの選手、晃平君(13)=大阪市港区=が「これがいつもの展開」と喜ぶ。森岡良介主将、筧裕次郎選手が連打で2点。筧選手の母、香代子さん(40)=兵庫県明石市=も「電話で野球の話はできなかったけど、元気そうだった。残りの力を全部出して」と拍手する。
5回裏、森岡主将のスリーランホームランが飛び出すと、「やったー」と誰彼なく手を握り合った。応援の野球部員らを前に、卒業生が「優勝行くぞー!」。それに部員たちが「ヨッシャー!」と応える。雰囲気は最高潮。
試合が終わり、この夏5度目の校歌が球場に響く。勝利のあいさつにやって来た選手たちに、応援席からは「明日も頼むぞ」「絶対優勝や」の声が飛んでいた。
【写真】5回裏、森岡主将のスリーランホームランに沸く明徳の応援席(甲子園球場)
母の“遺言”胸にプレー 山口秀人一塁手
お母さん、夢がかなったよ――。明徳義塾の山口秀人一塁手(17)を野球に導いたのは、4歳のときに亡くした母の“遺言”だった。「兄弟そろって甲子園に出るよう、たくましく育ってほしい」。大の高校野球ファンだった母から願いを託された大舞台。出場から優勝へ、可能性は大きく広がった。
両親は野球が縁で結ばれた。草野球が趣味の父、和正さん(43)=大阪府茨木市=のライバルチームで熱心にスコアを付けていたのが母の良子さん。結婚して秀人君、貴樹君(14)の兄弟をもうけた。「一生懸命が伝わってくるから高校野球が大好き」。目に映る高校球児のはつらつプレーに、良子さんは成長した兄弟をダブらせていた。
しかし良子さんは平成2年6月、28歳の若さで病死する。4歳だった秀人君には母の記憶はほとんどない。ただ、今では遺言と変わらない母の願いだけは和正さんから繰り返し聞いていた。当然のように、小学3年から野球を始めた。
「明るく、そりゃあもう、気立てのいい子でして。見かけはお父さんに似てるけど、中身は本当にお母さん似」と祖母の久子さん(71)。
実は秀人君には別の夢もあった。「(新喜劇の)吉本に入りたい」。お笑い芸人への一時的なあこがれだったが、小学5年のとき、映画会社の劇団のオーディションにうかった。
1年間、劇団通いと野球の練習に明け暮れた。そして出した結論は「やっぱり、野球」。迷いを吹っ切り、中学に進んでからは大阪でも屈指の少年野球チームで活躍。その監督の勧めで明徳に進学した。
母を亡くして12年。見えない力が導いてくれたとしか思えない甲子園出場だった。県大会準々決勝の岡豊戦。同点で迎えた9回裏無死満塁、絶体絶命のピンチ。「負けた」と敗戦も覚悟した試合を拾った。
「あれはお母さんが助けてくれたのかもしれない」。甲子園を勝ち進むうち、そう思うようになった。
この日の相手、川之江のエースとは練習試合で対戦し、苦手意識があった。「打てそうにない。でも打つしかない」。言葉通り、気持ちで打った2安打が、いずれも得点に結び付いた。母の墓前の供え物は、もう優勝メダルと決めている。
【写真】自らの三塁打と泉元選手のタイムリー打で10点目のホームを踏む山口秀人選手。優勝メダルまであと一歩だ(甲子園球場)
祝賀横断幕できた 須崎市
明徳義塾高の地元・須崎市でも決勝進出に大喜び。「こうなったら優勝しかない」と市民のボルテージが上がり、市役所では職員たちが20日、「祝優勝」の横断幕を急きょ準備した。
梅原一市長は「今大会は初戦から優勝しそうな気がしていた」と喜ぶ。同市長は試合ごとに明徳の選手らが泊まっている旅館にレタックスを送っている。20日には「ベンチに入ることもできない多くの友達に報いるためにも、千載一遇のチャンスを生かしてください。優勝旗を待っています!」との激励文を送った。
市役所は21日の決勝戦に向けて市民応援バスへの参加を呼び掛けた。3回戦は22人、準決勝は35人だったが、今回は過去最高の76人が予約した。また、同高校からは生徒や教職員約400人が21日朝、甲子園に出発する。
決勝戦の際には、市民文化会館の大ホールに大型画面を設置。市民が集まっての応援を市役所などが呼び掛けている。
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