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激しいノックボールが三遊間に飛んだ。一方がキャッチすると、その瞬間、もう一人の視線が打球方向から離れた。「おらー、何でボールを目で追わんか、そこがおまえの悪いところや」。中村敏彦監督の怒鳴り声が響いた。
それでも、高知中出身の土居弘和には「監督に中一から指導してもらっています。中高で指導が大きく変わったところはないけど、“げき”が少なくなった」と映る。
中村監督は立命館大を卒業後、明徳義塾高のコーチを経て、八一年に母校、高知学園の教員となった。高校のコーチ、中学監督を経験し、九一年十一月に高校監督に就任。九四年春にいったん中学監督に戻ったが、九九年春に再就任した。監督として二度目の“登板”となる。
練習での大声は、今も決して少ないとは言えない中村監督。だが、中学時代からずっと監督に接する選手は、微妙な変化を感じ取っていた。
怒っても無意味
九二年夏、一度目の高校監督の時のこと。選手権県予選の1回戦、宿毛相手に三回までに7点を奪い3点リード。ところが、高知は六投手を繰り出すものの総崩れ。「何でこうなるのか」とグラウンドに叫び続けた。結局、11安打を浴び16四死球を与え、9−15と逆転されて敗退した。
「いくら試合で怒っても、全く無意味だ」と感じた。自分が試合にのめり込み、周りの状況や選手の気持ちが分からなかった。「選手は指導者の顔色を見てしまうもんだが、試合は相手とやるんだ。ベンチとの試合ではないんだ」。そして、監督が迷えば、選手も当然迷っていた。
高校監督に再就任した時、「二度と同じ間違いをしない」と心に決めた。練習中に怒鳴っても、頭ごなしでなく意味を伝え、フォローを心掛けるようにした。ある程度の演出もし、選手を乗せることを考えるようにもなった。
推薦の1期生ら
岡本前監督に「いつかおまえに(高校野球部を)渡すから」と言われていた。九八年夏、中村監督が指導する高知中チームは全日本少年大会でベスト8まで進んだ。
かねて渡し時を考えていた前監督から、「春に自分の構想で野球部をつくれ」と告げられた。中学校で一から教えた選手も一緒に高校へ上がる。上級生の時は絶対勝負しなければと誓った。
その春、ちょうど高知高の入試制度が変わった。推薦制度が導入されたのだ。それまで来てほしい選手にも、「一般入試を受けてください」としか言えなかった。しかし、この年から、一定の基準を越えていれば「入学できますよ」と切りだせた。新しい態勢で、より強いチームづくりができる節目の年となった。
併設中学校からのメンバーに、甲藤啓介(鏡野中)、福山雄(足摺岬中)ら数人の推薦入学の一期生が加わった。そして昨夏、彼らが中心となる新チームに衣替え。秋の県大会、四国大会は絶対狙う意気込みで、ここ十年で一番の練習量をこなした。
鍛えた成果は結果となって表れた。秋の県大会、甲藤が投げ中芸を6−3で破ると、福山が投げて海洋、高知西をコールドゲーム。県代表をかけた準決勝は、室戸から9安打を奪い、福山が最速140キロを記録して完投。決勝は明徳を破った高知東を、二人の継投で競り勝った。四国大会1回戦は大量点で三本松を寄せ付けない。だが、準決勝の小松島戦は九回、守備の乱れが出て逆転負け。不安のあった守備の立て直しが必要だった。
=敬称略
【写真】99年春、再び高校監督を引き継いだ中村敏彦監督(右)。29年前に岡本道雄前監督(左)の下で選手として甲子園に出場したことがある
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