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十一月十一日の告示(同二十八日投・開票)が三週間後に迫った県知事選挙。三選を目指す現職の橋本大二郎(52)に対抗し、県農協連会長の所谷孝夫(69)が急きょ名乗りを上げ、信任投票とみられていた選挙情勢が一変した。農協組織のトップがなぜ、保守系現職に反旗を翻したのか。農協連と知事の間に一体何があったのか――。
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平成四年二月二十日。窓から県庁を間近に望む県農協会館(現JA高知ビル)の六階会議室。だ円形のテーブルを囲んで、二十数人の男たちが昼食を取りながら、世間話に花を咲かせていた。
その中に、ひときわ若い、初参加の男がいた。前年の十二月、県知事選史上最高の「三十一万票」を獲得し、衝撃的な初当選を飾った橋本だった。当時四十五歳。初めての戦後生まれの最年少知事として、話題を独り占めにした。
橋本が出席した昼食会の名称は、「木曜会」。一次産業界のトップらが二−三カ月に一度、知事を囲んで食事を共にする親ぼく会で、前知事の中内力の時代に誕生した。
メンバーは知事を筆頭に、県農協連会長と農協各連の副会長、県漁連会長、県鰹鮪漁協組合長、県森連会長、県木材協会長ら二十八人が名を連ねていた。
ところが、橋本が知事に就任して三回目の親ぼく会を前に、知事公室(現秘書課)から木曜会事務局の農協中央会に電話が入った。
「いきなり、『こんな会は無意味。必要なときにテーマを決めてやりましょう』と。驚きました」と当時の事務局員。
当時の木曜会を知る人は「仕事に直接関係のない雑談もしたが、それがまた、互いの意思疎通に役立った」。しかし、全力疾走で分単位のスケジュールをこなしていた橋本には「テーマもなく、議論もしない会なんて無意味」と映った。
木曜会は、会長を務める川野忠顕(当時、農協連会長)の名前で、「知事欠席」の文書を会員に送付。結局、名簿から橋本の名前は削除された。
■「やりこめられた」■
知事欠席のまま木曜会が開かれてから二カ月後の十一月二十七日。農協連と橋本の関係をさらに悪化させる出来事が起きた。
農協中央会、農協農政会議の会長として県庁に陳情に訪れた川野に向かって、橋本は語気を強めてこう言い放った。
「農協はコメの輸入自由化は絶対反対と言っているが、組織の指導者としてそれでいいのか。反対だけでは無責任。それで農家を守れるのか」
テーブルをたたいて問い詰める橋本に、川野の顔色が変わった。取材中の記者もあっけにとられた。
当時、川野は全国農協中央会の副会長でもあった。実力もあり、年季も積んでいた。相応のプライドもあったに違いない。それが息子ほど年下の知事に「やりこめられた」。周りの目にはそう映った。
陳情に同行した農協連幹部が言う。
「県庁から帰った後、川野会長は『あの若造が!』と怒ってね。その後はほとんど県庁に足を運ばなくなりました」
■「気負いがあった」■
あれから七年。橋本が振り返る。
「僕は外から飛び込んできた。しがらみがない故の発言が強みでもあった。しかし、今にして思えば、あれほど気負って言わなくてもよかった」
平成三年の知事選で、農協連は自民党公認候補を推した。その中で川野に怒られながら、農協連幹部の中でただ一人、橋本を支援したのが所谷だった。
四年二月。農協経済連副会長として木曜会に出席していた所谷は、そのときの橋本の様子を「就任早々で無理もないが、溶け込めないようだった」と思い起こす。その所谷が七年後、くしくも同じ会議室で知事選の出馬表明をしようとは、だれが想像しただろう。
(文中敬称略、知事選取材班)
【写真】上着を羽織りながら、会合に出掛ける橋本知事。あまりの過密スケジュール故のマイナス面も…(4年11月、県庁)
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