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「いやあ、きのうの集会も盛り上がってねえ。疲れ? 熱が入っちゅうけん、疲れは吹っ飛ばあ」
飄々(ひょうひょう)とした表情でにっこり。「典型的な高知の農民の顔」と自任する日焼け顔を崩して目を輝かす。
宿毛市の山奥、愛媛県境にほど近い山北地区に「田んぼ六反、畑二反」を耕す農家の長男として生まれた。
家は貧しかった。
「わら草履を履き、芋飯の弁当を持って小学校へ通うた。芋飯の芋は毎晩寝る前に小切(こぎ)って、それをどっさり入れて飯を炊いて。コメより芋の方がよけやったねえ。服は一年の時に買った制服を、そでに当てをしてずっと着よった」
小学校卒業後、愛媛県側の南宇和農業学校に進学。終戦前の混乱期だったが、所谷少年はここに陸上部を作る。「長距離の選手でねえ。駅伝を走りよった」。間もなく新制南宇和高校に生まれ変わった同校に、今度は演劇部を作った。
卒業後、地元中学校の助教諭に。担当は社会と体育。
「ちょっと前に代用教員ゆうてた身分。泳いだり走ったり、野球やったり。子供らと走り回りよった」
子供らにも慕われたが、二年半勤めて一念発起。大阪の大学に進学する。生活費を稼ぎながら大学に通った。
「パチンコの玉磨き、大阪沖に停泊する外国船の警備、港湾荷役の計数係…。いろいろやった。遊びは映画やねえ。当時、えい映画があったよ。ジョン・フォード、戦争と平和、誰がために鐘は鳴る…。年に百二十本は見よった」
大阪では人生を決める人と再会する。助教諭時代の教え子、國夫人(65)だ。國さんは小学校一年の時に結核性の病気で右足が不自由になっていた。そのため高校進学を断念、親類を頼って大阪に出て働いていた。映画館でデートを重ねた。結婚は大学を卒業して二年ほど運送会社に勤めている時。昭和三十三年に帰郷し、所谷さんは宿毛農協に入った。就職難の時代だったが、「宿毛農協は一年前に倒産しちょって、入り手がなかった」そうだ。
仕事はきつかった。勤務時間は朝七時から夕方六時まで。もちろん残業もある。自転車で一時間半かけて農協に通った。
共済担当として農家を回る傍ら、女性部と青壮年部を作った。組織強化のため始めたのが農民運動会。読書会も組織した。
三十六歳で参事。合併して宿毛市農協になった後、四十二歳で専務に。合併農協としては最年少の専務だった。以後、県農協連のトップにまで上り詰める。
「僕の人生は人に恵まれた」と振り返る。「部下も手足のように動いてくれて…。自分の実力は五くらいやけんど、部下のおかげで七にも八にもなった」。
そんな部下の一人に、故人となった宿毛市農協職員の名を挙げる。彼と協力し、農業で自活できる理想郷を作ろうとした。導入作目はブロッコリーとオクラ。やがて「夫は土木、妻は縫製に行かなくてもいいような」自立経営がほぼ確立される。皆が農業に励み、あちこちに笑顔が広がった。所谷さんは「そこに協同組合の理想を見た」という。ところが…。
間もなくブロッコリーはアメリカ産に、オクラはフィリピン産に打ちのめされた。家族経営を重視し、農産物の輸入を危険視する所谷さんの思想は、その時の体験に根差している。そしてその思いが、自らを知事選出馬へと駆り立てた。
出馬表明から一カ月半。走り続ける中で県民の声を聞き、自信がついた。「看板は農政だけ」の批判に対しても、「八年前の橋本さんはどうでした? 少なくとも私の方が県内の実情を知っている。県庁の組織と職員を自在に動かせる自信もある」とさらり。
生まれ育った宿毛市山北で今も農業を続ける。家族は妻と子供三人、嫁一人、孫三人の九人。愛妻家で、「女房が丈夫でないので(選挙で)無理がかかりやせんかと。それが一番の気掛かり」とか。
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