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龍馬像ドラマ

 平成11年3月28日、高知市桂浜の坂本龍馬銅像前は1000人近くの人で熱気に包まれた。9年に市が行った調査で、銅像に亀裂が生じ、倒壊の危険があることが判明。市民らが募金活動を展開し、この日、修復された龍馬像の除幕式が行われたのだ。「龍馬の功績を後世に伝えよう」と守られた銅像。実はこの70年前、龍馬像を建立したのも多くの県民の善意だった。銅像建立にまつわるドラマを紹介しよう。

 【写真】大勢の参列者が見守る中、除幕された修復龍馬像(平成11年3月28日、高知市桂浜)

大勢の参列者が見守る中、除幕された修復龍馬像(平成11年3月28日、高知市桂浜)

 ■血気の青年集まる

 大正15年、龍馬像建立へ1人の青年が立ち上がった。当時、早稲田大学の学生だった入交好保。今でこそ数いる幕末の英雄の中でも高い人気を誇る龍馬だが、当時はあまりよく知られていなかった。龍馬に心酔していた入交は、その功績を世に示そうと日本一大きな銅像を作ることを決意。同じ海南中学校の出身で、いずれも京大生だった朝倉盛、信清浩男、土居清美らを誘った。

 入交らは大正15年8月に「坂本先生銅像建設会」を発会。新聞で呼び掛けたところ、5、60名が集ったという。社会人の大野武夫、彫刻家の島村治文らも加わり、県内の青年10万人から1人当たり20銭の寄付を集め、2万円とする計画を立てた。


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 ■無銭旅行で県内遊説

 大野の紹介で「土佐の交通王」と呼ばれた野村茂久馬の助けを得た。野村から乗合自動車のフリーパスをもらい、入交らは夏休みに無銭旅行で県内を遊説するなど募金活動に没頭した。また、活動盛り上げへ龍馬の映画も企画。入交がシナリオを書いて京都太秦の坂東妻三郎を訪ね、承諾させた。

 このほか、入交は静岡に住んでいた元宮内大臣伯爵、田中光顕を訪れ、龍馬像建設の趣旨を熱く語った。田中光顕は志士の生き残りとして有名で、龍馬や中岡慎太郎とも交友のあった人物。昭和2年には伯爵の働き掛けで秩父宮殿下(昭和天皇の弟君)から200円の御下賜金を頂いた。これをきっかけに「資産なく信用なし」と建設会にけちをつけていた県も態度を一変。県内の青年団に号令をかけるなど、寄付金集めに乗り出した。

 入交らはついに約2万5000円(現在の金額で7000−8000万円)を集めた。


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 ■制作、搬送に苦労

 銅像の建設場所は「アメリカの自由の女神に対照して」と桂浜に。制作は島村の先輩で、高村光雲(詩人・高村光太郎の父)に学んだ宿毛市出身の彫刻家、本山白雲に依頼。島村も助手として参加した。台座の設計は東京美術学校の教授、千頭庸哉に頼んだ。

日本一大きな銅像として大群衆が詰め掛け、盛大に行われた坂本龍馬像の除幕式(昭和3年5月27日、高知市桂浜)  ところで、龍馬像本体の高さは5.3メートル、台座と合わせると13.4メートルに達する。そのため全体を4つに分けて鋳造した後、接合しなければならなかった。昭和3年5月、除幕式を間近に控え、白雲から鋳造が予定通り進まないとの連絡があり、入交も上京した。不眠不休の作業で銅像は除幕式の10日前にようやく出来上がったが、次は搬送にも一苦労。あまりに大きいため、東海道線のトンネルにつかえると、鉄道係員から抗議が出たほどだった。神戸からは海路で高知へ。最後は建設業者や青年団、地元の人々らの力で運び上げた。

 龍馬像の除幕式は昭和3年5月27日に行われた。内閣総理大臣、田中義一をはじめ、そうそうたる人々が参列し、祝辞を述べた。幕が取り払われ、龍馬が姿を現すと、群衆はどよめき、青年たちは涙したという。運動が実を結んだ瞬間だった。資金も信用もない無名の学生らが起こした大きな渦。それは一介の浪人にすぎない龍馬が国事に奔走した姿とよく似ている。入交自身も後年、高知新聞紙上で「土佐の青年の意気を示す機会であった」と振り返っている。台座には「建設者 高知縣青年」と刻まれている。

 【写真】日本一大きな銅像として大群衆が詰め掛け、盛大に行われた坂本龍馬像の除幕式(昭和3年5月27日、高知市桂浜)


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 ■受け継がれる精神

 入交は高知新聞の連載「回想の龍馬像」の中で「銅像の寿命は西洋では数百年の例があるが、わが国でも鎌倉の露座の大仏は数百年たっており、その心配は当分不用である」と記している。ところが、建設から70年近くたち、龍馬像に異変があった。

修復のため“地上”に下りた龍馬像。観光客らが見物に訪れた(平成11年2月12日、高知市桂浜)  平成9年、市の委嘱で専門家が銅像内部を調べたところ、像本体の下「地山(じやま)」内部の金属製補強材の腐食が進み、内部のモルタルがひび割れ、ブロンズ製の地山表面にまで亀裂が生じていた。倒壊の危険もあったため市は善後策を検討し始めた。

 このニュースに全国の龍馬ファンから市に修復のための寄付の申し出が相次いだ。県民の間でも修復への声が高まり、10年7月、市民組織「龍馬像修復実行委員会」(入交太二郎会長)が発足。「日本も龍馬も倒しとうない!!」をキャッチコピーに全国的な募金活動を展開した。

 11年2月には修復のため、建立以来初めて龍馬像が地上に下ろされ、話題に。そして同年3月28日、お色直しで重厚な濃緑になった龍馬像が再び雄姿を見せた。銅像前は龍馬ファンら1000人近い人で埋まり、一段と“男前”になった龍馬像に大きな歓声と拍手がわき起こった。参列の中には故人となった入交好保氏の遺影も見えた。

 「龍馬の志を世に訴えよう」そして「第二、第三の龍馬を」――。青年たちが銅像建立にかけた思いはしっかりと県民に受け継がれ、桂浜の龍馬像は今も県内屈指の観光地として、龍馬ファンの“聖地”の一つとなっている。「志を持って生きよ」。龍馬もまた、太平洋のはるかを見つめながら、そう訴えているに違いない。

 【写真】修復のため“地上”に下りた龍馬像。観光客らが見物に訪れた(平成11年2月12日、高知市桂浜)


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4.茫々(ぼうぼう)たる太平洋を見つめる龍馬像
【写真】茫々(ぼうぼう)たる太平洋を見つめる龍馬像

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