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点や線で測られる「死」
在京の弁護士が「一枚の図」を示す。「脳死の過程をこういう形で考えると、分かりよいのでは」
図には、四つの同心円が描かれている。それぞれの円には、AからDまでのアルファベットと文字も書き込まれている。
中心の小さな円「A」が「脳死」。それを取り囲む次の円「B」が「法的脳死判定」、その周りの円「C」が「臨床的脳死」、最も大きな円「D」は「間もなく脳死」。DからAへ。図は脳死に至るまでを、同心円の中心に向かっていく形で表現している。
Aの円は、臓器移植法が定義する「脳死」、つまり「すべての脳の機能が完全に失われた状態」を指している。Bの円は、法に基づいて厚生省の脳死判定基準(竹内基準)で測った時に「脳死」とされる状態を指す。この二つの円は本来は、ぴったり重なって同じ円になるべきなのだが、そうはならない。竹内基準で「脳死」と判定されても、本当の意味での「脳死」にはまだ達していない可能性を残しているからだ。
Cの「臨床的脳死」は、現場の医師が「患者は脳死状態に陥った」と判断する段階を指す。この円の大きさは、医師が竹内基準に準じた脳死判定テストを行ってそう判断するのか、もっとあっさりしたテストで判断するのかによって変わる。竹内基準と同じ項目、手法であれば、Cは小さくなってBに限りなく近づき、大まかな判断であれば円は逆に大きくなる。
Dは現場の医師が「間もなく脳死になる状態」と判断する段階を指す。
この弁護士は、医師から家族たちに対してA、B、C、Dの違いを十分把握できるような説明がきちんと行われるかどうか、CやDの段階で、Aの「脳死」であるかのような説明が行われてしまうのではないか、という点に懸念を持っている。
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この図に少し書き加えたいと思う。現場の医師が「蘇生(そせい)限界点」「ポイント・オブ・ノーリターン」と判断する段階、つまり「もう患者は助からない」とあきらめる段階を示す円である。
この円の大きさは、医師の力量によって変わってくる。例えばCとDの間のYの位置であきらめる医師もいるだろうし、Dよりも大きな円であきらめてしまう医師もいるだろう。逆にかなり進んだ救命治療を行っていて、BとAの間にいる患者を救おうと努力し、実現に近づいている病院もある。
多くの人の願いは、この「蘇生限界点」の輪が、より小さな円になること、これまで難しかった重篤な患者の命が、もっともっと救われるようになることにある。YからXへ。さらにその向こうまで。救命医療の全体的なボトムアップ、先進化が期待されている。
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図は、さらに多くの問題の在りかを示唆している。国や医学界は脳死判定基準を見直し、Bの円をAの円に重なるよう努めることが必要だろう。また現場の医師は、脳死をより正確に見極めるために、独自に竹内基準よりも厳しい判定基準を設けていく必要があるのではないか。B円の内側にC円が入っていくことは法律上可能であるし、そうした病院は既に実在している。
もう一つ。図は脳死判定と臓器移植の持つとても重要な本質を照らし出す。
脳死問題は、ともすれば医学的な判定基準など技術的なことを中心に語られがちだ。どの線や点を越えれば「死」になるのか、ということが語られる。線の引き方や点の打ち方をめぐって、論議が続く。
この線や点で語られる「死」という姿こそ、脳死の本質ではないだろうか。脳死は、人為的な尺度のある一線や一点を越えれば、「死んだ」とされ、臓器が摘出される。しかしその線や点を越える前と後と、見た目には体の状態はほとんど変わらない。人工呼吸で呼吸を続け、心臓は鼓動を打ち、体温がある。汗が流れ、涙が流れる。脳死になった女性が出産した例もある。
脳死は「見えない死」である。見えないがゆえに、人々は死を測る尺度の方に目を注ぐしか、死を確かめるすべがなくなる。死を見つめようとして、死を見ていない。死の尺度ばかりを見がちである。
従来、「死」は一連のさまざまな過程を通して受け止めることができた。悲しむことができる若干の時間があった。最後の治療の過程のもろもろや、遠のいていく体の温かみや力を通じて、「死」を実感し、悲しむことができた。ところが臓器提供を前提とした「脳死」はそうではない。ある一線を持って、「死んだ」とされる。死を十分に受け止め、悲しむことができにくい。とてもつらい本質がそこにある。
(社会部取材班)
【写真】DからAへ。図は脳死に向かう過程を、円の中止に向かう形で表現している
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