|
「自己決定」迫る社会
臓器移植法の見直しが、大問題になっている。法学者を集めた厚生省の研究班が、「脳死は人の死である」と一律に言い切るよう、今秋の法律改変を促す報告書を出したためだ。
この研究班は、「およそ人間は死後の臓器を提供する意思を有しているのが通常であり、それを望まないという意思が表示されない以上、臓器を摘出することが、本人の自己決定に沿う」とも言う。
では、万一この通りに臓器移植法が“改正”された場合、どうなるのか。
■本人の意思
現在の法は「本人の自己決定」を基本に置いている。臓器を提供するのか、提供しないのか。それは本人の意思でまず決まる。
@【臓器提供しようと思う場合】=カードに記入、携帯する。「脳死」に陥った時は、カードで意思が確かめられる。家族が同意すれば臓器摘出される。
A【臓器提供したくない場合】=カードに記入せず、持ち歩く必要もない。「脳死」に陥っても、カードがなければ、臓器摘出されることはない。
B【臓器を提供するかどうか、考えが決まっていない場合】=カードに記入せずにいるので、臓器は摘出されない。
つまり現行法は、考えが決まっていない人を「臓器を提供しない人」とみなすようになっている。
これは臓器提供をしたい、したくないという「自己決定」がいつでもできると同時に、考えがまとまるまで「自己決定しない」こともできる社会、自己決定の時期を自分自身が選べる社会を意味する。
「考えるのは面倒くさい」という人が「自己決定」せずにいても、許される社会である。
■二者択一
これが厚生省研究班の主張通りになった場合、どう変わるのだろうか。
@【臓器を提供しようと思う場合】=何もしなくてよい。人間はすべて臓器を提供する意思を持っている、と判断される。家族が同意すれば、臓器が摘出される。
A【臓器提供したくない場合】=拒否の意思をカードに記入し、持ち歩かなければならない。紛失したりすれば、提供意思があると判断されることがある。
B【臓器を提供するかどうか、考えが決まっていない場合】=拒否のカードを持たない限り、提供意思があるとみなされる。家族の同意があれば、臓器が摘出される。
つまり“改正案”は、考えが決まっていない人を、基本的に「臓器提供する人」とみなす。
これは、人々があらかじめ「臓器提供をしたい」という選択を取らされた上で、それが嫌ならカードに拒否の意思を表示して常時携帯せよ、と迫る社会を意味している。臓器提供したいのか、したくないのか。今すぐ答えを出すよう二者択一を迫られる。
人々が自ら考え、その人なりの時期に答えを見つけること、自己決定の時期を自分自身で選ぶことができない社会である。
自分が生きてきた時間や、死への見方、移植を望んでいる人々の現状をどう理解するのか、というもろもろの思考過程はあらかじめ失われている。
そしてこの仕組みでは、まだ考えが決まっていない人、あるいは臓器移植について考えるのは面倒だという人、こうした臓器移植法の動きを全く知らない人は、「臓器提供する」という枠の方に組み込まれる。
その枠から出るには、拒否カードを持つというたった一つの選択しかない。
自分の考えが決まっていない人にとって、拒否のカードを常に携帯し続けるという行為は、精神的、物理的に負担の重いものである。結局はカードを持たずにいる人の割合が高くなるのではないだろうか。
その人本来の「自己決定」でなく、与えられた「自己決定(のようなもの)」で臓器摘出される人が出てくることになる。
臓器移植法は、多様な死生観がある中で、移植しなくては助からない人と、そうした人のために臓器を提供しようと考える人とを公正に結ぶルールである。
移植を待つ人たちをめぐる状況への理解と関心は、社会の中で深めていかなければならないだろう。しかし、臓器提供の意思を持つか、持たないかは、それぞれの自由意思であり、だれも強制できないし、してはならない。
ところが、現実には厚生省とその研究班は、その強制をしようとしている。自分の心の中で思いめぐらせるよりも前に、とりあえずでも態度を表面化させなければならない社会は、硬直していて息苦しい。
柔らかな社会と硬直した社会。脳死問題はまさに、二十一世紀を迎える私たちに「どんな社会をつくりたいのか」を突き付けているようだ。
岐路の一つは、すぐそばにやってきている。人々はどう選択するのか。私たち取材班は、判断の基となるものを取材し、提示し続けたいと思う。
(社会部取材班)
(おわり)
【写真】早春の街を行き交う人々。脳死問題は私たちに「どんな社会をつくりたいのか」を問い掛けている(高知市内、写真は本文と関係ありません)
|