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線引き困難な死の時期
「脳死は人の死なのか」、あるいは「人の死ではないのか」という根底の問題に、いま一度立ち返ってみようと思う。
脳が機能しなくなった体、思考できなくなり臓器や身体組織を制御できなくなった体は、もはや「死体」なのだろうか。
■拝むような動き
厚生省研究班がまとめた「脳死判定」のマニュアルには、ある注意点が記されている。
「脳死」の体でも、手足が動くことがある。一見、脳が生きているように思えるかもしれないが、それは「脊髄(せきずい)反射」などの“機械的な反射”であって、脳が生きているわけではない。見間違えて混乱しないように――というニュアンスの注意である。
人間は、体の表面が刺激されると、反射的な運動が起きることがある。例えば目にごみが入ると、瞬間的に目をつぶってしまう。
これは体の表面で感じた刺激が、神経回路を伝わって脳の中心部(脳幹)にまで達し、そこで身体の運動を起こさせる命令が出されて再び神経回路を伝わり、体の部位に命令が伝わってくるということが、瞬時に起きている。
このように、外部からの刺激情報を受け取り、それに対応する運動を命令している中心が「脳幹」の場合、「脳幹反射」と呼ばれる。命令しているのが脊髄の場合だと、「脊髄反射」となる。ひざをたたいて足が上がる反応などは、「脊髄反射」だ。
「脳死」に陥ったと思われていた体が動いた時、それは「実は脳がまだ生きていて、脳死ではない」ことを指しているのか、それとも「脊髄による“機械的な”反射のせい」なのか、医学的に厳密に見分けなければならないことになる。
しかしこの違いは、消えゆく命を見つめる人々にとってみると、どれほどの違いを持つものだろうか。死を受け入れられるのかどうかは、「脳幹反射なのか、脊髄反射なのか」によって決まるものではない。
例えば先のマニュアルで、脳の働きと区別しなければならない、とされている現象に「ラザロ徴候」というものがある。
これは、人工呼吸器を外して数分たった後や、無呼吸テストの最中などに、上半身に鳥肌が立ち、手が小刻みに震え始める。両手はひじで曲がり、胸の前で拝むように合わせた後、最後に体のわきに戻る――というものだ。キリストが死から復活させた聖書上の人物の名前にちなんで、この名が付いている。
この現象が仮に「脊髄反射」によるものだとしても、拝むような動きを見て、「生」を感じる人は少なくないだろう。
こうして見てくると、どんなに医学的に正確に「脳死」が判定されるようになっても、「脳死」を死だと思えない人は消えることがないのではないか。脳死者からの移植医療は、医学的なレベルの話だけではなく、そうした思い、情動をどう受け止め、大切にするかが問われる。
■死の迷宮
ところで「脊髄反射」の主役である脊髄は、脳と深くつながっている。
脊髄は、背骨の中を通っている直径約一センチほどの神経の束だ。途中からいくつもの神経が出ていて、体中に張り巡らされている。先端は、膨れて脳幹となり、その上からしわだらけの大脳が包んでいる。全体は逆さまのゴルフクラブのように見える。
脊髄の中には、透明な「脳脊髄液」が流れている。脳の中で作られるこの液は、脳の表面を巡り、脊髄の末端まで降りていった後、今度は上昇して頭のてっぺんから吸収されていく循環を繰り返している。
脊髄や脳は、ひっくるめて「中枢神経系」と呼ばれていて、互いに連携し、一体化して人間の生命活動を支えているのである。
実際、アメリカのハーバード大医学部が一九六八年に世界で初めて策定した「脳死判定基準」は、この脊髄反射の消失確認も含めていた。しかし各国の医学者に批判され、その後の脳死判定基準では、脊髄反射は外されている。
なぜなら脊髄は、死ぬまでに時間がかかる部位で、心臓死の後でも、しばらく反射が見られることがあるからだった。脊髄反射があるから死ではない、としてしまうと、従来の心臓死した死体も生体の範囲に入り込んでくることになる。
結局のところ死は、捕まえようとした私たちの手を擦り抜けてしまう。
確かなのは、死は“瞬間でやってくる”のではなく、時間を掛けた幅のある過程の中で訪れるということだ。その過程の中でいつ死を感じ、いつ受け止めるのか。人によってその時期はそれぞれ違う。
であるならば、「脳死」に陥った人からの臓器提供が今後どんなに重ねられたとしても、その状況をもって死の時期を一律に線引きしようとするのではなく、互いを認め合う多様性を十分に確保しなければならないだろう。
(社会部取材班)
【写真】結び合う母と子の手。命は不可思議で、尊い(写真は本文と関係ありません) |