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【政治判断】
着工順位未定で決着
本州と淡路島を隔てる明石海峡の幅は約四キロ。それをまたぐ長大橋に鉄道を敷設することは技術的に可能なのか。鉄道併用橋を主張する高知県知事、溝渕増巳にはそれなりの裏付けがあった。
昭和三十九年に発足した日本鉄道建設公団の副総裁、篠原武司(後の総裁)と旧知の溝渕は、篠原から「鉄道併用橋は技術的に可能。それよりも明石側の取り付けが問題だ」と聞いていた。国鉄から本四架橋の調査を引き継いだ鉄建公団のナンバー2のお墨付きだけに、大きな自信になった。
溝渕は、自民党幹事長の田中角栄(後の首相)を東京・目白の私邸に訪ねたときも篠原の話を持ち出し、鉄道併用橋をアピールした。難色を示していた田中も篠原の名を聞いて、お得意の「よっしゃ」で応じたが、他のルートの陳情団にも「よっしゃ」を連発していた。そしてルート争いは思わぬ展開をみせる。
「三ルートとも建設は可能」とする土木学会の最終報告が出た二カ月後の四十二年七月十九日。衆院建設委員会で質問に立った香川県選出の衆院議員、大平正芳(後の首相)が「複数架橋論」を持ち出した。
大平は児島−坂出ルートを推す岡山、香川勢の切り札とも言える大物政治家だったが、大平は過熱するルート争いで着工が遅れることを心配していたと言われる。「複数論なら争いは鎮まる」。経済成長率が対前年度比一一・〇%と高度成長を維持していたことも、複数論を後押しした。
本州と四国の間に三本も橋が架かるとは思ってもいない時代。だからこそ誘致合戦に血道を上げていたわけだが、大平質問を機に流れは複数論へと傾いていく。
大平質問の二週間前、高知県議会で初質問に立った社会党の大村之彦は、こう述べている。
「政治的な問題が絡み、明石−鳴門も、児島−坂出も、そして尾道−今治も付けよう、こういう結論になることを恐れる。世界に類のない長い橋を同時に三つも架けることが、果たして日本の国情から許されるだろうか」(議事録要旨)
しかし事態は、大村が懸念した方向に展開した。
■ルート絞れず
四十四年五月、経済企画庁が新全国総合開発計画を発表。この中で、本四架橋は「三ルートとも昭和六十年までに建設を図る」と明記された。
その年の十二月に総選挙が行われ、政府の四十五年度予算編成は年を越した。しかし大蔵原案には建設、運輸両省が要求した本州四国連絡橋公団の設立費は計上されなかった。着工ルートと時期が決まってから、というのが大蔵省の言い分だった。
決着は政治折衝に持ち込まれた。第三次佐藤内閣の蔵相は福田赳夫(後の首相)、建設相には根本竜太郎が就任していた。
一月三十日夜、首相官邸での福田、根本の閣僚折衝が始まり、自民党幹事長の田中ら党三役も加わった。そして大蔵省が主張した優先着工ルートは未定のまま、本四公団の設立が決まった。三ルートとも同時に調査設計を進め、調査結果や地元の態勢が整ったルートから着工する。問題を先送りした、いかにも自民党らしい政治決着だった。
翌朝、自民党本部で記者会見した田中はあのダミ声で「三本とも同時。陳情合戦は本日をもって終わり」と終結を宣言した。
田中も福田も次の政権を狙っていた。ルートを絞って政治的な恨みを買うことは避けたかったのだろう。本四公団はこの年の七月に設立されたが、政治の思惑にほんろうされた本四架橋には次の試練が待っていた。
(文中敬称略)
【写真】福田赳夫蔵相(左端)との予算折衝に臨む根本竜太郎建設相(右端)=昭和45年1 月30日、首相官邸
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